平成元年3月15日(26年前の本日)私は何が有っても1963年式のトヨペットクラウンデラックスに乗る!と決意した日であります。本日はRS41が好きになるまでの経緯を書きます。
私がクラウンRS41を意識したのは昭和52年4月の事で、当時私3歳11か月でした。自宅から10キロ程の所に我が家と同型の1963年式RS41の廃車があり、車検は昭和48年7月で切れて居ました。それで遊んでこのクラウンでないと駄目となり、程なくして今の愛車に乗ると考えました。
この日私はお婆ちゃんの姉(大伯母)が住む所に行き(当時はお婆ちゃんの母親も住んで居ました)その途中に掘立小屋みたいな整備工場があり、其処に1963年式RS41,1964年式日本交通タクシーカラーのRS40、初期型RT40DX等10数台廃車が置かれた廃車場があり、大伯母に挨拶するとそこにすっ飛びました。
当時は1960年代の廃車が好きになり久しく馴染むのもアッと云う間でした。流石のお婆ちゃんも困って居ました。
我が家に有るRS41はカローラKE20もそうですが、絶対に一人で車内に入らない事を約束させられ近づけませんでした。それが真ん前に野晒で車が有るからもう我慢が出来ません。
掘立小屋の主は叱る事なく「坊やはポンコツがそんなに好きか?ならば遊んでも良いよ」となり、私は我が家に有るRS41と同じ廃車で遊びました。 その時ホーンリンクが方向指示器も兼ねている事を知り、又綺麗だナァとより思う様になりました。
メーターも間近で見たのはこの廃車でみたのが初めてで、ランプが多くて結構カッコいいとこの頃思いました。制限なくいつでも車内に入れるからより我が家のRS41に惚れ込んで、お爺ちゃんに「僕、お爺ちゃんの車に大人になったら乗る!」と云いました。恐らく昭和52年の6月前後にとうとうクラウンRS41を処分する機会をお爺ちゃん、お婆ちゃん、親父、お袋は失ったとなります。
当時は多くが車に乗る=KE20に乗るでしたが、益々RS41の豪華さに惹かれてしまい、親父が運転してくれない事に不満でしたが、親父に頼まずとも、この廃車場に来れば良いとなり、以前ほどせがまなくなりました。
以前も書いて居ますが、親父が運転が苦手であった事は良かったのです。私並の上手さだったら、彼の性格では興味のない事は面倒くさがりな人で、1年車検となると惜しげもなく捨て去るのが親父の性格です。それに親父がRS41に乗ったのは車齢9年ですし、物は大切に使うが一定の時期を使う、年数が経つと価値ある、無し関係なく捨ててしまうのも親父の性格です。(親父は生きていれば4月で71歳です)
だいぶ前ですが、関口宏さんのご子息がJAFメイトで1960年代の国産車を所有されて居るはなしが有り、その記事を読むと1960年代の愛車に乗ると、走行中の風景が色々な芸術的な風景に見えたり、美しい風景を感じるそうです。
私も同じ事を体験しました。廃車の1963年式の運転席に乗るとルパンⅢ世の世界に見えたり、水曜ロードショーや金曜ロードショーのOPの風景や曲が聞こえる感じがしました。但し残念ながら自分の車は何も感じません。兎に角その廃車でないと駄目なのです。
他に有った1964年式RS40とか多分同じ年式のコロナRT40DXでもそれらを感じたりしました。尚1963年式RS41は程なくしてエンジンを抜かれてダイナRK170のドナーになり、エンジンが抜けた分フロントが軽くなり、尻下がりとなり、その姿が結構カッコよく感じましたし、益々其れが好きになりました。最もエンジンは当時興味は無かったです。
*山形なんぞに東京の日本交通タクシーの車両が有ったのは調べてみると私のライバル高校で昭和40年前後から「自動車運転講習」を就職を希望する生徒に格安で運転免許が取得できる様にとポンコツ車を方々から集めて河川敷でやって居り、42年頃ブルーバードが事故廃車になり、当時担当教師だったN教師(近所に住んでいらっしゃいます)が東京の日本交通に出向いて引っ張って来たそうです。N教師の話ではガソリンとの話で、多分昭和38年9月~12月製造?当時LPGが主流になりつつあったが、未だ完全ではなく予備車で比較的古くなったガソリン車も残していたそうです。それもお役目ゴメンで運んできたそうです。
恐らく夕方に掘立小屋で主と一緒にテレビを見たし、ルパンⅢ世をよく見し、主が今は亡き水野治夫さんによく似た方ですので、その様な感じがするのでしょう。
然し昭和57年を境に主とは会えなくなりましたが、時折遊びました。当時は私が良く遊ぶので残してくれていたと思いましたので、そのまま主が居なくとも遊んで居ました。中学に入る頃にはこの車のコラム噛みについて対応をマスターして居り、シフト操作は15歳にしてとても上手くなりました。お陰様で15年運転してコラム噛みは居眠り運転した1度だけです。
さて高校受験を控えた昭和63年の末には、藪が伸び放題だったのが綺麗になって居り、嫌な予感は有りましたが、先ずは高校受験突破が第一でしたので。3月10日が終わる事に集中していました。
受験が終わりその後は直ぐに廃車場に行き眺めたり、車内に入りましたが、3月15日の夕方行くとそこには1台も廃車が無く一晩にして無くなり大きなショックを受けました。
16日以降は自転車で近隣市、町の解体屋を全て回って4日掛りで探すも発見できませんでした。山形市の捜索はキツカッタけど頑張りましたが駄目でした。(以前UPしたツノダ自転車で走り回りました)
1台も無くなった15日ガランとした土地に向かって「絶対トヨペットクラウンデラックスに乗る!廃車にしたあの車を走らせる!」と誓いました。
3月15日は私のRS41泥沼化の始まりであり、もう後に引けないとなった日でもあります。
此処は廃車場の前です。38年前は奥の信号から先が掘立小屋ガレージの主の土地でした。(昭和57年まで)
写真の大きな空き地に1963年式RS41他10数台の廃車が有りました。今も何処に何が有ったか覚えていますが、今は大通りになりユックリ撮影が出来ませんからササッとなり判りづらく済みません。
RS41とRS40は、電信柱の奥、丁度グレーの車が有る付近に有りました。
写真ファミリーマートに掘立小屋の整備工場らしい建物が有りました。
実は、この廃車が無くなったのは理由があり、主の中学時代の恩師である大伯母が大きく関わり、平素からこの廃車場が「街の景観を損ねる、このままでは犯罪の温床になりかねない」と考えて居ました。
昭和63年の春先に3枚目の写真の右端に新しい家が建ち始め、市役所にどうも景観が良くない、何とか処分する様訴えたが絶対聞き入れず、役所が介入すると益々激しい剣幕を起こし困ったと、大伯母が聞いて、
住民に「私に任せて!」と云い説得に入った事が判りました。無論御婆さんは私がここをお気に入りである事はよ~く知って居ますが、処分を優先しました。
当時72歳でしたが、行動的で身軽な御婆さんですから秋までには「先生、悪かった」と云い処分に応じたそうです。この時御婆さんは貸ビル経営を提案したそうで、此れが大当たりしました。(3年前に老朽化等から解体して、今は借地で募集を掛けて居ます)
主の主張は1番上の写真に有り、区画整理で土地を渡したくなく、反対しが没収され頭に来て、ガレージや廃車を放置したそうです。
最後の大仕事のガレージ解体は説得に12年掛かり、ローソンが借りたいとなり此処を逃さずプッシュ。平成12年に解体となり、姿を消しました。
大伯母は今98歳の全聾で歩けなくなりましたが、元が元気な御婆さんですからピンピンしています。