既にCCIガールさんがこの記事をUPしましたが、本日山形新聞の「談話室」と云う朝日新聞で云うならば「天声人語」の欄がこれですが、載って居たので話題にしました。
2015年10月21日ともなると、あのタイムマシーンはバナナの皮で走るとされていますが、マンザラおかしな話では有りません。天ぷら油の廃油でバスが走る物が存在します。その事を談話室では載せて居ました。
他にも廃棄した衣類等を原料とした燃料も有り、これも紹介されて居ました。ですので30年前21世紀になりまさか走るとは思わなかった3台を改めて紹介します。
以前から紹介していますが、元羽後交通のボンネットバス。実はこのショットは非常に貴重で、態々この写真の為に大分は豊後高田から福山に駆けつけてくれた貴重な写真です。漸く発見しました。
おさらいとして、
左のバスは1957年式で、今国内では2番目に古いバスで、実働となると最古らしいです。
昭和32年5月10日に納車されて、13日に登録、「秋2
あ 0155」で主に角館で営業していました。
昭和44年5月12日に廃車となり以後平成17年まで湯沢市郊外で藁小屋として余生を送って居ました。
右のバスは1961年式で、日野のバス。
昭和36年9月19日に納車登録され、ナンバーは
「秋2 あ 0175」でした。昭和47年5月16日に廃車となり、稲川町にて釣り堀の店舗になりこれも平成17年まで稲川町にて過ごし、一時的に宮城県北部で一緒になり、平成18年までには広島は福山市に運ばれます。
この写真は平成21年頃撮影されました。
強烈な写真はこれですが、屋根とフロントグリル、フレーム以外は全て新規製作したそうです。エンジンはオリジナルは残ってはいたものの、激しく腐って居りOOH不可能との事で次のタイプのエンジンに載せ替えたそうです。良くぞまぁ広島まで運んだと思いました。
それよりも、どうやって登録したのか気になりますね、到底どちらのオーナーも廃車証明書は残すとは考えにくく、羽後交通で廃車証明書を残していたのだろうか?
此方は毎度おなじみのクラウンですが、
昭和60年当時は何時息の根が止まってもおかしくないレベルだったのです。これも21世紀になって
東京まで高速を100㌔以上で走るは、年間7000㌔走るはとなるとは、30年前は考えられませんでした。
そう云えば最近思い出しましたが、本来オリジナルだった温度調整SWがリヤトレーに有り、弄って遊んだら見る見る冷えたが程なくして冷えが甘くなり伯父に「こら!
円淨、クーラーが壊れたぞ!」と怒られた記憶が蘇りました。今思えばアイシングですね。秋田の内陸部に伯父と親父の共通の知人宅に行った時の話です。
因みに伯父に聞いた所「え?そんな事あったのかよ!」でした(笑)「でもお前はあの車に乗るとはしゃぐよナァ、○四郎が運転苦手でお前を乗せるの事が余りなかったからナァ。」○四郎=親父の名前です。米寿を迎えた伯父ですが、マダマダ元気で卒寿も夢ではないですね。因みに伯父の卒寿は親父が亡くなり満30年の2年後ですが、カミさんの祖母より早く卒寿を迎えます。