栗子東トンネルから左折して急な坂を登ると程なくして現れる遺構がこの二ツ小屋隧道。昭和9年3月竣工です。ここは明治時代も二ツ小屋隧道の名前で存在しましたが、如何せん低い隧道故自動車を走らせるには厳しいと云う事で昭和7年より大きく掘り直してこの姿になりました。
年配の方の証言ではここが唯一トンネル内部に照明がある施設で、(20wの裸電球が数個有ったらしい)その奥の長い栗子隧道は866mもの長さにも関わらず照明がなかったそうです。
後日のUPですが、ここも11月~5月までは冬季閉鎖なので3月にこの隧道を使った映画が撮影されました。
この隧道もそもそも作りが悪くて、漏水が酷く現役当時でも通行車両は水浴びの悲惨な目に遭う所でした。
今なら絶対トヨペットクラウンデラックスは走らせたくないな!更にここの漏水は飲むと忽ち下痢をする酷い水でひいお爺ちゃんも下痢をしたかな?でも次第に慣れて下痢をしなくなります。(逆にこういう悲惨な環境で育ったので104歳まで生きたのか?)
二ツ小屋隧道。とてもド田舎の建築物とは思えない、ヨーロッパの古城を連想させられる隧道坑門ですね。
然し乍コンクリートが入手出来ず、質の悪い余ったコンクリートを臼で砕いて砂利等を混ぜて使ったらしく、設計よりコンクリート使用量が少ないそうで、現場監督は完成直後でも逃げ出したくなったエピソードが遺されています。
それが天井の一部は崩落したものの、今だ通行可能ですが、危険な事は変わりありません。ここを通らないと我が故郷には行けません!
この隧道のイメージ曲が次の
ピアフ本人が歌った「愛の賛歌」です。1952年発表で翌年越路吹雪が日本語版(岩谷時子作詞)で発表されます。丁度昭和28年(1953年)二ツ小屋隧道は隧道壁面崩落で内側からコンクリートを巻き立てまして、栗子隧道同様大型車のすれ違いが困難になりました。
昭和38年この車は栗子旧道を走りました。大叔父が市長を乗せたり、お爺ちゃんがひいお爺ちゃんを乗せて走りました。昭和40年まで数回は走ったと思います。
ひいお爺ちゃんが生まれた大平集落。「俺はここで明治19年生まれた」とでも煙草を吸いながらお爺ちゃんん位話したかな?
二ツ小屋隧道のシャワーを新車にも容赦なく降りかかります。更には今はない中野隧道は時々小石が崩落するとか話がありました。冗談じゃねぇ~!
本当に栗子ハイウェイ万歳!