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クーラー価格は50万円!? その1

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 さて私の車の最大の特徴の一つトランク型クーラーですが、不可解な点が有りました。当時の価格が50万円程で有った事。
 此れはお婆ちゃんから聞いたのではなく、年配のマニアさんで、その多くが70歳以上の方でしたので、本気にしていました。

 それも盲目的に信じて居たのではなく、実際1963年式以前のトヨペットクラウンデラックスの多くにクーラーが無く、観音開き含めて片手で数えるほどしか見た事有りません。その為間違いないと思いました。

 後に載せますが昭和40年当時のオプション価格表では16万円前後とあり、この時代ともなると、クーラー付きの残存車が多くなり、かなり安くなったと思って居ましたが、近年観音開きのマニアさんのブログに衝撃的な内容があり、それによると最も高価なトランクタイプでは177000円とあり、
50万円説は信憑性が揺らぎましたが、その方の記事では取り付け料が記載されて居ました。

 となると他に諸々の隠れたお金が掛かり50万円ではないのか?と思う様になりました。
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 シンプルな吹き出し口で此のデザインが好きです。1964年式以降のタイプも一時しましたが、冷え方がイマイチでした。此れに替えたら大分運転席まで冷えます。

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 カーテンがヒラヒラ・・・・となり窓を閉めた車には
「何て贅沢な!石をぶつけてやんべ~!」と当時なったみたいです。
 山形は夏はとんでもなく暑く、冬も同じとんでもなく寒い。クーラーは必須ですが当時山形では自動車に乗れるオーナーでもクーラーを取り付けられる者は一握りでした。我が市の様に小さいと我が家位でしょうね。
 最も引き取ったらクーラーが付いて居たので、「棚から牡丹餅」でした。
 

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 此れが本体で中に缶ジュース3本は冷やせる冷蔵庫が有ります。1964年式以降はどうも本体は一回り大きく感じますね。
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 ファンはクーラーなしが4枚ですが、クーラー付きは5枚になり、ファンシュラウドも付きます。
 今でしたらファンシュラウドと5枚羽を付けてオーバーヒート対策になりますね。ファンクラッチも純正で付きますのでより良いヒート対策になります。
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 で、此れが昭和40年のクーラー価格。やはりクラウン8用で175000円。となると私の車は昭和38年当時で17万円が妥当でしょう。
 でも50万円までの価格には程遠い。
 恐らく取り付け工賃は此処には書かれて居ませんので間違いなく結構な金額を取られる筈。
 実際当時クーラー取付はデーラーで行う場合は電装屋と整備の工場長が共同で10日程掛けて取り付けたと聞きます。

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 此れは足回りの整備ですが、当時スペーサーを入れる等クーラー取付による車のバランス取りも結構やりました。そのままでは車が右側に大きく傾いてしまいますので、必須作業でした。

 更に当時クーラーは純正、社外問わず取得税が何と10%も掛かりました。それらを含めて50万円となるのかな?と思いました。





クーラー価格は50万円!? その2

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  メーカー問わず昭和40年10月までは自動車用クーラーは
                「輸入禁止」
 でした。ですから、昭和30年代に日本に入った外車の後部席に国産のクーラーが付く個体がありますが非オリジナルではないのです。むしろ海外製のクーラーが付いて居るとなると40年10月以降の中古か中古でないならば「御禁制」のヤバイ物です。他にも排気量が5000㏄以上とか競技用も同様に輸入禁止でした。

 今回紹介する物は丁度自動車輸入開始前後の頃の物を紹介します。
 
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 昭和40年末のタイプ。冷房車ステッカーが付きます。
 実は私の車初めはかなり禿げてはいましたが、此れが付いていたが価値を知らず私が剥がしました。

 でもこのスピーカータイプの吹き出し口は運転席まで余り届かなかったと思いますが、後部席にはガンガン利きました。

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 通称角テール(昭和40年7月以降)から登場のエアコン。ダッシュタイプのみですが、価格は132000円程で、従来のダッシュクーラーより5000円安かったです。

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 こんな構造です。

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 クールファンの併用は平成以降の考えその物。冷房と扇風機の併用は当時考えられませんでした。
 1963年式に採用された吹き出し口は天井に冷気が上がり、天井に当って下に下がり、それを此れで撹拌すればより冷えて快適です。

 このタイプも1963年式の車に採用されました。トヨペットクラウンデラックスに付く個体も結構ありました。(なおカタログに此れが付く事は紹介されて居ません)
 何分強豪な海外製品が無い時代ですから価格もひょっとするとかなり「ボッたくって」なんやかんやで50万円近い(或いはそれ以上)を吹っかけたのかも知れません。ですからクーラーは遠い夢の又夢の世界だったのでしょうね、だからクーラーの形をした扇風機が出たのでしょう。
 



トマト定植

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 トマトの定植を行いました。
 苗からですから、不耕起栽培の対象で全体を耕しては居ません。あくまで植え込む所のみです。
 実は今年のトマトは、何時も買う苗屋さんからではなく、HCから購入。それも比較的素人に作りやすいとされて居る大玉トマトです。
 一般的な桃太郎はやはり栽培が難しく中々思う様なトマトは出来ませんでしたが、素人向けのトマトを昨年試験的に植えたら上手く行ったし、満足できる出来なので今年は全て此れにしました。但し価格は桃太郎の1.5倍します。

 定植は5月2日ですが、本来は10日以降が今年は間違いありません。茄子、胡瓜に付いては10日以降定植します。
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 4月20日辺りに7種類の肥料を混ぜて植えるだけにしていました。
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 支柱も既に立てて居ました。

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 定植時水が苗に掛かるので、籾殻を株元に撒くと良いでしょう。此れはトマトだけに限りません。

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 此れが定植全体像。

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 ついで敷き藁。藁は最近入手が困難になりましたので

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 造園屋さんから頂いた廃藁縄でも状態が良い物は肥料に回さず敷き藁に残しました。


ネギ、プリンスメロンの定植

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 続きまして、ネギとメロンです。
 ネギに関しては先ずは藁縄、肥料、ミカンの皮を畝に埋めます。その後しばらくしてから、ネギを定植しました。

 プリンスメロンについては、前回のトマトと同じ様なやり方で定植します。
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 ネギです。今年もスーパーの青果店で購入します。
 苗種屋さんにも有りますが、どれもつま楊枝程度の大きさのネギで1000本単位での販売ですから到底食べる事が出来ない量ですから買いません。スーパーだと100本程度です。
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 この様にして土を被せます。

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 プリンスメロン。
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 藁の入手の目途が立たないので大切に使います。その為藁縄をメインに使います。
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 平種無柿も芽吹きました。(此れは渋柿)

とらっく とらっく とらっく

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 私が幼少期だった頃最も読んで貰ったり、読んだりした絵本がこれです。

 いたずら書きもかなり有りましたが、相当ボロボロになるまで読みました。と同時にこの絵本の色調の影響を受けその後の人生に大きく影響しています。

 この絵本は昭和36年に発行され現在も増刷中です。
 
 私の絵本その物は他の自動車関連図鑑や絵本など20冊と共に昭和57年のある日無くなりましたが、今思えば此れは親父(当時38歳)の仕業だと思います。アンマリ車馬鹿過ぎて「何としても他の趣味を持たせたい」と彼は考え、職場である私の母校の焼却炉に放り投げたと思います。
 事実経済的に困窮した小学4年の頃でも「ファミコンが欲しい」と云うと全く躊躇う事無くベラボーに高いそれら一式を買ってくれました。
 まぁ親父の友人であった担任の先生は親父に「高村君、円淨にそんな誰もが買えない玩具を簡単に買うのは教育上良くないよ、我慢させて暫く置いてから検討すべきだぜ!」とでも云ったみたいです。
 
 お婆ちゃんから聞きましたが、親父は「円淨にポンコツばかり見せて育てたのが失敗だった」とつぶやいて居たと聞きました。これは親父が亡くなり1~2年程した頃だと記憶しています。

 この絵本は義弟の物でカミさんの実家に行った時30数年ぶりに見ました。此れを見て結構その後の人生、美意識等に影響を与えたと思う事があり、暫くこの絵本をベースに記事をUPします。

 山本忠敬氏の世界にのめり込んで今の私が有るのでしょうね。
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 主役はこのいすゞのボンネットトラック。
 トラックは全てボンネットです。恐らく今の若い親には驚く様なトラックが一杯です。
 私の様な「ジーちゃんパパ」ならこの事をよく理解しています。若い平成初頭とか昭和60年代のパパにおせえたるでぇ。

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 このバックの色なんかは私好きです。人生に於いて大きな影響を与えられて居ます。
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 このナンバーは旧車仲間なら説明皆不用ですが、若いパパにはおせえねばなりません。

 ナンバーは東京都のナンバーで、色は昭和37年5月末までは全国すべてオレンジに黒文字が営業車のナンバーです。6月にハイフンが付いて同時に現在の緑に白文字になりました。

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 トラックAピラーの楕円形は方向指示器で通称アポロウィンカーですが、正式には腕木式方向指示器です。昭和35年までは良く見られました。

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 バスのみキャブオーバーですが、他にトラックでは出ません。その奥が日野ルノーですが、これを知るマニアは私等とっつぁん位。
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 手前の赤紫は観音開きクラウンだと思います。ジープはJ3かな?その奥がダットサン220ピックアップでしょう。

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 これは多分ダットサンフェアレデーSP213だと思います。この少し暗い水色がたまらなく好き!これも影響を受けて居ます。

とらっく とらっく とらっく その2

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 この絵本に出るトラックを紹介します。
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 三菱T33型。アンチ三菱の私ですが結構好きです。

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 ロードローラーの色がこの頃凄く好きな色でした。此れも今変わりありません。
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 ミキサー車。この黒味かかったピンクも当時好きでした。車種は特定できませんがトヨタ系?


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 工事渋滞を抜けて当時としてはかなりのスピードで走ります。
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 タンクローリーはトヨタFA型です。
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 70キロに達すると、スピード違反となり白バイがやって来ます。恐らく70キロとなるとほぼ限界一杯のスピードです。絵本には切符を切られて、頭を掻いて居ますとあり此のあたりが良い。


絵本から見る当時の栗子国道

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 さて、とらっく とらっく とらっくはもう読み過ぎてボロボロにした事は既に書きましたが、この頃から旧道に対する何となくの憧れは有りました。
 大人になって当時トヨペットクラウンデラックスが当時走った道を想像して楽しむのも、この絵本がベースになっていると思います。

 以前から栗子、関山の自分なりの検証した記事を書きたいと考えて居ますので、当面この記事になる予定です。
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 このシーンで昔から想像していたのが、栗子隧道です。(当時は栗子国道)無論関山もそうですが何故か栗子でした。

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 此れが栗子国道の映画映像です。こんなに曲がりくねった道が当時の一級国道でした。何分自動車が走る道と云う事は余り考えずに明治の道を改良したのがこの頃全国に見られました。あくまで道幅を広げれば良いが当時の考えだったと思われます。


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 字幕の通り栗子は11月~翌年5月初めまでは冬季閉鎖でした。此れでは全く使い物になりません。=大平集落もそういう所でしたので、移り住んだ米澤藩士も長くはこの地には住めませんでしたし、当家も10年程度で現在の長井市に移住して居ります。

 写真のバスは昭和37年8月より定期運航された東北急行と云うバス会社が東京より米沢経由山形行きのバスを運航しました。此れは後に書きますが栗子隧道や二ツ小屋隧道は大型車泣かせの悲惨な道でした。

 大平集落にかって住んで居た者の子孫で昭和54年まで存在した大瀧集落在住の方が東京等に出て、実家の大瀧に帰省時大瀧でバスから降りるのが非常に恥ずかしかったと回想されて居ました。

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 昭和30年代後半らしいですが、山形交通バスの栗子走行の写真。此処を我が愛車も昭和41年までは走りました。
 とても狭い道である事がご理解出来たと思います。当時は自動車が少なかったので何とかなりました。

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 続いてこちらは同じ時期の東京。五輪に向けて工事していました。でも山形とは雲泥の差でしたね。
 中央のRS41のトランク側の下を見ると出っ張りがあるので、間違いなく1963年式です。

 ややや?この位沈むはクーラー付き窓を開けている車が多い中閉めているはクーラー付きで使用中でしょう。まさか私の愛車????
 だったら嬉しい!運転手は大叔父でお向かいの市長を乗せているとしておきましょう(笑)

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 未だUPしていないいい位置での写真。栗子、関山、名川、雄勝等明治~昭和初年度の道や隧道をこの車は走り抜けて来ました。
 8.5万キロ程でメーターが停まって居たので6~7割が昭和43年までの距離かな?記憶に残る昭和52年以降は私は20回前後しかこの車に乗りませんので。


ナンバービスマイナスねじに変更

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 31ワゴンさんより「ヤフオク」にマイナスねじのナンバービスが出ていると話が有り、教えて頂いたページを見ると出て居ましたので、落札しました。
 我が家の車は先ず昭和38年6月に納車だったので、100%マイナスビスでしょうね。オリジナルねじは昭和63年1月8日に山形5ナンバーと共に捨て去った筈です。
 また当時の姿に近付いたた感じがしますね。
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 こんな具合になりました。
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 前
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 後ろ
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 ねじを替えてちょっくら撮影。
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 此れは自宅から20M先ですが、かつてはこの道だけで、寒河江に行く時は此処を通らねばなりませんでした。然し道幅が4Mは明らかに有りません。
 写真奥のココア色の家がかつてラーメン屋でした。
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 この様にかなり狭い。脇の砂利道は今後道幅を広げる為の確保の土地ですが、現時点では他の土地の確保の目途が立たず、この道のアスファルトは傷んで居ますが、4M幅が無いと云う事で補修が出来ないとのことです。
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 かつてはこんなに狭かった。対向車(当時は余りなかったけど)が来たら大変です。この近辺は初めに紹介した元ラーメン屋さん以外皆住民入れ替えです。



私が40年前初めて

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 旧車好きになるきっかけとなった車が、この消防車の顔をしたトラックで日産U580(590)系のトラックで、1台は3方開き、もう一台はダンプの廃車でした。昭和50年のお盆です。
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 このオッカナい顔でしたね。以前紹介した草ヒロのボンネットバスもそうでしたし、関山の親父の分家のゼネコンの下請け会社の敷地にもこの顔のタンクローリーが平成10年までありました。
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 「た」が重要。子供向け絵本とは云え、抜かりなく役所ナンバーを描いて居ます。官公庁ナンバーは昭和44年の秋~46年夏までの=シングルナンバー時代の枠でした。(た行全てです)
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 こちらも580系ですね。
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 小さくとも抜かりないです。流石山本さん。
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 道路標識。此れで子供の頃標識を覚えました。
 それにしても今では見ない標識もあります。
 警笛鳴らせは特に見ません。今何処にこの標識有るだろうか?

ホイールシリンダー続々入庫

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 当初何年掛けてでも1台分を集め様と考えていたホイールシリンダーですが、今回そう決めてから2か月もしないうちに「ラスト1個で1台分」と云う所まで集まりました。
 ブログ友の仙人さんがレストア中のピックアップの車両用と云う事で譲り受けたホイールシリンダーでしたが合わなかった、又RS21型(1959年ないし1960年式の観音開き)とRS26は共通と譲った方が云うので買うと実は全然違うとなり、連絡を試みるが応じなかったと云う事でもうその方と付き合わないとなりまして、手放す事としたそうです。

 そのトラブルの原因となった方とは私も15年ほど前から付き合って居ますがクラウン、マスターラインには詳しい筈で仙人さんが手に入れた1台分の品番を聞いて私は首をかしげる内容でした。百歩譲ってRS20系のホイールシリンダーの形状、品番をを知らないとしても、此の数ではとても1台分にはならない。と判ると筈です。メールにて確認しましたが、きちんと仙人さんは車体番号と製造年月を知らせ、その方も現車確認しています。
 唯仙人さんに非があらば、作業都合で購入から2年して気付いたですがそれにしても酷いな。
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 仙人さんより教えて頂いた品番で欲しい物が写真右の「47530-39016」です。此の品番はS50系(3代目クラウン)の品番です。左は前回手に入れたRS40系用。取り付け可能です。(なおシューはそのままでは付かないので、シリンダー頭の爪を削ります)
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 こちらは「47520-30010」(写真右)でRS21用です。左は「47520-30031」です。多分取り付けは不可能でしょう、若干小さい感じがします。此れは余り欲しいとは思いませんでした。もしオークション30031を手に入れそこなえば、ぬか喜びだったでしょう。
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 47540-30021以外皆入りました。予定では39016のS50用を入手したいと考えて居ます。
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 今回仙人さんの話で一番欲しいと思った、リヤホイールシリンダー。此れは左右共通です。
 純正と社外の混合ですね。特に私は其処は云々云いません。
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 純正はこの様なトヨタマークが付きます。因みに現在私の車純正と社外の混合で、親戚のタクシー会社からリヤは出てこなかったので別ルートで漸く1台分です。

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 一番首をかしげたリヤのアジャスター。
 どうして左だけなのに、2個有るから1台分何て知人は仙人さんに云ったのか??
 どう見てもおかしいと判るでしょ~、Iさん。

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 ねっ、RS21LHとあるでしょ?品番も書いてありますよ。一寸此れは酷いな。
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 前回UPしました、S50系用(S40系と共通)あの時気付きましたが右がシルバー、左が黒となって居ます。
 実はこの50系を早まって落札したな!と後悔しましたが此れが無かったら1台分になりませんでした。

 *もしかすると箱と中身が違う可能性がある。と仙人さんから聞きましたので、心配だったのもあり確認したくなった事と、ブログネタに良い内容と判断したので今回UP致しました。中身が別である事はありませんでした。

デスビキャップ

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 仙人さんからホイールシリンダー以外にもデスビキャップ&ローターも頂きました。
 これもホイールシリンダーを売った方と同じIさんとの話です。実はブログに「デスビキャップが合わない」と書き込みが有ったのですかさず
 先ず間違いなく19001-31013を掴まされたな、或いはR型エンジンの後期型が該当の30031かな?と睨んだら見事に31013のキャップでした。

 写真は今もメーカーで手に入る31013ですが、RS40系の場合昭和41年8月(9月説もあり)が該当しそれ以前は該当しません。本来付くべく30031は相当前に製造廃止になりました。
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 口径はドンピシャ。頂いた物はデンソー製品では有りませんが、10年使えば交換する消耗品ですから、イザ交換時無かったではシャレにならないので入手します。実は2年前配線引き直しした時ローターごとキャップ、プラグコードを新品に交換しました。
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 高さもドンピシャ。実は以前も書いて居ますが、私の車のエンジンは前オーナーの手によってデスビをカローラKE10と思われる物に変更してありました。それとクーラーコンプレッサのブラケットも自作品らしい物になって居ます。オリジナルは「ぼっこれエンジン」と共に溶鉱炉へ投げ込んだのです。(但しコンプレッサは外して移植した)
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 ローターです。
 実はオークションで10年以上前度々「RS40用」と謳われ落札したらデスビがデカくて入らないと相談が寄せられました。私は逆にオリジナルを持って居り「キャップがデカくて収まらないでした。

 つまり私はオリジナルキャップはもう用無しですが、KE系の物を付けるにはデスビのギヤに合わせカムシャフトの一部を削らねばなりません。此れは私には無理も無理な作業です(笑)
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 こんな状態で入手され、おそらく取り付けたらキャップが小さく入らなかったのでしょうね。でも此れについてはIさんもRS26には取り付け不能と判って然るべきです。
 それどころか初代クラウン、2代目マスターラインの時代は絶対この大きさは使用不可と判る筈。知らなかったでは済ませられません。
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 ホイールシリンダーの時もそうですが、随所に手や足が小さく出て居ましたが此れは今飼育中の「ピンク怪獣」です。撮影中静かに気付かれない様にしましたが、
 「ちゃっちゃっちゃ~がぉぉ~」とやって来て部品に襲い掛かりました。危うくホイールシリンダーの箱を破られそうになったり、Assyを投げようとしたり、危険な撮影でした。でも皆部品は無事です。



万世大路 山形県側より

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 とらっくとらっくとらっくが発行された頃現役だった万世大路(ばんせいたいろ)栗子隧道を含む4つもの隧道を超えて福島県に行く重要な路線で、昭和27年より国道13号線となりました。
 この道路を作ったのは「土木県令」とも付近の住民を激しく弾圧して徴用した為「鬼県令」とも云われた初代山鹿t県令三島通庸(みしまみちざね)の企画にて明治10年から僅か3年と云う短期間で完成。明治14年には明治天皇が山形に御来県された時万世大路と命名されました。

 昭和に入り世界恐慌で未曾有の大不況になり、この失業対策と自動車を通行させるのが目的で昭和7年より11年にかけて三島が築いたこの道を改良。然し実情は11月から翌年5月まで冬季閉鎖を余儀なくされる道である事と本格的モータリゼーションには到底対応出来ず、昭和36年10月から現在の場所に新万世道を工事します。そして41年5月29日遂に完成し、今日に至ります。

 以前も書いて居ますが今回紹介する旧道のほぼ真下に9キロに及ぶ長大トンネルを作り2年後に完成を目指し工事中です。今回は旧道を我がトヨペットクラウンデラックスもかつて走っていますし、私の美意識や歴史認識の原点の本を紹介したので先ずは栗子から記事を纏めたいと考えUP致しました。


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 此れは山形県側から行くと一番初めに見る遺構の瀧岩上橋(たきいわかみはし)。云い伝えによるとこの橋は2代目で昭和7年竣工で、初代は明治10年頃に作られ石組みのアーチ橋だったそうです。

 それと此処に行くには、R13から米沢砕石と云う会社がありその敷地に入ります。休日は閉鎖されて居ますので入れません。
 昭和46年11月22日に旧道山形側はこの会社に払い下げられましたので私有地である事を意識する必要が有ります。

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 うねうねとした道を走り、当時の車は皆オーバーヒート寸前だった筈。平均速度17キロと都内の一般道路の平均速度と同じ速度で走ります。
 無論私の車はオーバードライブをOFFにしないと「確実に事故死します」前回UPの写真を見て下さい。悲惨な道でしょ?尚途中に数メートルのコンクリート橋が有りますが、もう風化寸前でとても自動車が走れる代物ではないですから幾ら4WDが有っても危険ですよ。

 それと有名なこの写真は右が明治時代に作られた隧道で、左が昭和10年に完成した2代目。実は明治時代のこの隧道は、故意に右側に曲げられ、激しい吹雪の対策です。関山の現トンネルに見られるミス工事ではないですよ。三島の設計は非常に優れ、全くずれが無かったそうです。無論私のトヨペットクラウンデラックスはこれを見て居ますよ。
 福島県側の坑門と比べると山形県側の坑門は痛みが激しく、此れは激しい吹雪が原因です。昭和38年当時の写真が有りますが、当時でもかなり傷んで居ました。

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 此れは明治の道と昭和の道のつなぎ目。一番奥がこうなって居るそうです。当然ですが左の壁は昭和時代のコンクリートです。福島県側から真っ直ぐにするとこうなります。距離にして数十メートルで明治の道は終わります。*中に入ってはなりませんぞ。

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 かなり見づらいですが、よ~く見ると壁が少し厚くなって居ます。実は此れ昭和24年にトンネル崩落事故があり、その対策で内側に厚くコンクリートを施したのです。
 それに伴い大型車同士のすれ違いが困難、出来なくなりました。とらっくとらっくとらっくには有りませんが、運転手の「おじさん」泣かせです。
 実際トラック運転手だった昭和8年生まれの人に聞きましたが、此処は絶対新人運転手には運転させなかったそうです。他に栗子ばかりではなく次回紹介の二ツ小屋隧道も同じです。
 公用で運転した大叔父もトラックが前にいると悲惨で、性能が悪く汚い排ガスをまき散らして視界不良も有ったそうです。当時旧道には20w白熱電球が数か所にあったそうです。
 *写真は昭和24年補修の所が再び廃道後の昭和47年に再崩落した所です。ですから絶対に栗子隧道に入ってはなりません。

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 福島県側の坑門。山形側よりはかなり良く、昭和38年当時の坑門に近い状態です。

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 大体その頃の福島県側の写真。

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 そんな時代を走り抜けた我が愛車。無論使用ギヤはローかセカンド。恐らくエンジン負担が著しいクーラーは栗子や関山等では使わなかった筈です。
 大叔父は「どうだったかな~?」ですが(笑)
 
 因みに旧隧道は標高700Mの所にありますので、今の500Mより高く運転は大変でした。


栗子隧道~二ツ小屋隧道間

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 難所の栗子隧道を過ぎると今度は二ツ小屋隧道まで幾つか遺構が見られます。次が机甲橋、大平橋、大平の集落跡地、烏川橋、二ツ小屋隧道です。此処からはもう福島市。
 
 大平集落は万世大路が出来た明治14年から米澤藩士だった者の家族が40軒程移住しました。その中の1軒が当家です。日本で1~2番の貧乏藩が米澤ですから貧しく掘立小屋みたいな家であったでしょう。
 その藩士の3男が私のひいお爺ちゃんで平成2年に104歳で往生したお爺ちゃんが此処で生まれました。
 唯はっきりした事は判りませんが賭博場なども有って結構栄えた話もありますが、一年の半分は雪に閉ざされ長くは此処で生活は出来ませんでした。昭和7年までにこの大平集落は廃村となり、当家は日露戦争の少し前に移住し今の長井市へ、最後までに残った家族も大瀧集落へ移住しました。
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 此れが大平橋。マダマダ使えそうな感じですが、30年ほどで現役は引退です。

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 大平集落跡地。実は昭和7年に廃村後、残った家は昭和の改修工事の時、作業員の休憩小屋として使われ、マトモに使える家は無く、中でもマトモな家に使えるボロ家の材料を継ぎ足して休憩小屋にしたそうです。無論工事が終われば解体なので何も残る筈が有りません。
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 烏川橋。欄干が悲惨な状態ですが、橋脚は意外やしっかりしているそうです。
 尚近年のリポートでは道にあちこちに穴が空き自動車の通行はこの橋に行けるかどうかの状態です。

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 以前も紹介していますが、ヨーロッパの古城を思わせる二ツ小屋隧道。昭和9年3月竣工です。此処を通らないと我が故郷大平には行けませんが、もう烏川橋にすら4輪では行く事が困難になりました。
 昭和41年5月以前は此処を私のトヨペットクラウンデラックスは走って居ます。無論オーバードライブはOFF。多分我が家で乗った時はひいお爺ちゃんは煙草を吸いながら「俺は此処で生まれ育った」とお爺ちゃんに話したと思いますね。

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 この二ツ小屋隧道も曲者。栗子隧道同様崩落が有って内側からコンクリートで巻き立てられて居ます。
 実はこの二ツ小屋隧道はそもそもコンクリートの質が極悪で、別の現場で使った余り、それも固まったクズを臼でついて細かくして再利用と云う悲惨な物で、工事監督が、完成当時ヤバイから逃げ出そうとしたり、絶対通りたくないと話したエピソードが有ります。

 この隧道も何時通れなくなるか判りません。

 それと聞いた話では現役時代から隧道壁から漏水が見られたそうです。当然クラウンはびしょ濡れですね。

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 恐らくこんな感じで走って居たかな?


野菜苗の定植

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 撮影や実施は12日ですので、丁度1週間前です。此れで全て夏野菜の定植が終わりました。本日植えた分は信頼置ける店で購入ですから成功したも同然。
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 茄子苗。昨年同様3本の定植です。
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 アップで。

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 こちらは玉ねぎ。昨年定植して6月頃収穫です。追肥をしました。
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 胡瓜今年も5本。

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 アップで。結構藁を使うのが胡瓜です。クラウンの車内から近く引っ張り出します。


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 ピーマン、今年も1本。

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 ネギ。此方は更に1週間前に定植。竹棒より左が本数が少ないのに結構高価でした。右がスーパーで買った山形ネギ。葡萄畑に植えきれなかった残りを此方へ。

二ツ小屋隧道~新沢橋

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 二ツ小屋隧道を抜けて地図上のグレーのラインが旧R13で次が新沢橋に行きます。廃道後はグレーの所は栗子スキー場になり、黒い方は本来は無かった道ですが、山菜取りを始め旧道探訪の趣味や私有林を持つ人などが集まり有志で道を作りました。本来は存在しません。
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 福島県側の遺構です。地図の様な作りです。
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 平成24年より新栗子トンネル工事につき、有志が作った道は工事関係者の通路になりました。
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 地図にあるグレーのライン方面に行くと万世大路最大の美しい遺構に着きます。
 新沢橋です。昭和11年に竣工しました。写真は現在の姿ですが、緑色のガードレールは廃道寸前の頃取り付けられました。それまではガードレールが無かったのです。何故なら、戦時中の金属供出で欄干が供出となり、戦後も長らく欄干なしでした。

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 此れが完成直後の写真だそうです。この写真の欄干は戦時中から昭和40年前後まで欄干が無い状態でした。
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 このコンクリートの物体は先代の新沢橋とされて居ます。此の上に木造の橋が有ったらしいです。
 我が故郷大平集落に住む者に作られたとか。昭和7年に廃村してからは不要となりこうなったのでしょう。
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 ガードレールの無い時代走った我が愛車ですが、別段こういう風景があちこちにあり、これと云った思い出は無いそうです。(大叔父より)
 先ずは目的地に着いた安堵感が有ったでしょう。


富貴豆を撒く

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 比較的日陰に強い富貴豆。此れをクラウンの脇に植えてみました。
 他にも食用菊の後作にも富貴豆を撒きました。

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 第一陣、リヤ左フェンダー。

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 第二陣、フロントフェンダー脇。此処は肥料気があるので、ツルボケにならないか不安です。

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 助手席ドア側には雑草を積み重ねました。

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 食用菊の後作に。
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 置く場所が無いので、リヤバンパー側に雑草を積みまして、枯れたら肥料とすき込んでホウレンソウの種でも撒いてみましょうか?


万世大路ラスト

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 旧R13万世大路ラストは明治時代に実際有った隧道群です。この4つを通り抜けて福島へと行く訳ですが、苅安隧道については大正12年に大崩落を起こして消滅しましたが、今回紹介の高平(たかひら)隧道は昭和42年までは有りました。
 現在は昭和37年竣工の高平トンネルが取って変わりましたが、旧隧道は砕石事業に伴い払い下げられ取り壊されて消失しました。此れが昭和42年の事ですが、現役時代はしばしこの付近が小石の崩落が有ったらしいです。
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 現在の道路を使った地図ですがこんな感じで配置されて居たそうです。
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 新沢橋を渡って高平隧道に近い所ですが、今もガードレールが残って居ます。

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  此れは戦前に作られた構造物ですが、土砂に埋まりました。私の車が新車時は此処を走った事でしょう。
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  UP忘れの山形県側の栗子隧道坑門。
  昭和38年との話ですが、既にかなりボロボロで、前
  回UPした福島川坑門と現役末期当時で変わらない
 ので初代の隧道の完成度は非常に高い事が伺えま  
 す。2代目の位置は坑門が傷みますね。
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 万世大路を抜けると漸く福島の街が見えた事でしょう。当時此処を通って東京に行った方が近いのか、それとも関山の方が距離は長いが時間的にとなると近かったのだろうか? 
 


花穂整形

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 巨峰などの大きな房になる葡萄で欠かせない作業が花穂整形です。

 此れを怠ると確実に「花振い」を起こして実が成りません。種無し葡萄にする場合は花穂を「4㎝」種ありの場合は「7㎝」に花を整形します。

 成長して大きくなりますから花が咲くまで観察して整形します。
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 右側の長い花穂を切ります。
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 切った後、その後4センチにします。
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 こんな具合にあちこちから集めると花穂が落ちます。一体何房整形したか判らなくなりますね。
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 ついでにトマトのわき目摘み。これも必要。

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    実は、ヤバイ事が!富貴豆の芽が出ましたが 根こそぎ鳩に喰われてしましました。

関山隧道のお話

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 とらっくとらっくとらっくの絵本で関山隧道付近を思い浮かべるのがこのシーンですね。宮城県側には絵本にある「警笛鳴らせ」と思われる標識が放置されています。(昨年UP済)
 此処から暫く関山隧道のお話と致します。

 栗子山隧道(正式名称です)工事開始から2年後の明治13年に工事が始まり工事開始から1か月ほどで大惨事が発生します。栗子の工事では死亡者を出さなかったものの(昭和の改修では4名死亡)関山では23名もの犠牲者を出しました。何れ紹介しますが其れを読むと定説の事故原因が胡散臭いですが此れが原因で関山には幽霊が出るとなりました。

 完成は明治15年ですが、そもそもこの土地は江戸時代から峰渡りと云うルートが有り、かなり難路ではあるが仙台へ行く近道の一つとされて来ました。今この旧道の足跡を辿る動きが活発です。
 
 昭和の改修は昭和10年より始まり12年に終了。自動車が通れる道としましたが、実際は栗子ほど悲惨では無いものの、危険で自動車には不向きな道路でした。昭和38年10月より現道の工事が始まり43年10月1日開通です。
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 このシーンですね、関山隧道界隈を思い浮かべるシーンは。
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 何度も紹介しましたが名の無いコンクリート橋。此処から先がそのシーンを私は思い浮かべますね。
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 橋を渡ると直ぐ左へきつく曲がります。此処での事故もかなりありました。ハンドルを切り損ねると!

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 こうなります。このブルーバードも今回謎を解明しました。此れは後程。

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 このシーンは宮城県側にもります。(建物は元々なし)
 平坦で広い所が有り、そこでエンジンを冷まします。
 
 絵本には「おじさんはエンジンを冷ましながら、タバコを吸います」とあります。当時は真水に防錆剤を入れただけですから非常にヒートしやすかったのです。

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 今回はナンチャッテ旧道では有りません。本当に旧道に入りました。47年ぶりの訪問です。51年前の5月19日は間違いなくお爺ちゃんが此処を運転しました。
 大叔父は何度此処を走ったかな?
 

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 道幅はやはり狭く、六十厘越みたいな道(旧R112)です。今年も月山ワインに行ってみますよ。


関山隧道山形県側

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 今回は山形県側の旧道を辿ります。今のR48の脇を辿ったり、一部は現道を踏襲しています。
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 石碑。恐らく此処は旧道を踏襲しているでしょうね。
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 このブロック垣の上が旧道だったと思われます。此処は山でしたので、削って現道を作りました。
 昭和43年まではブロックの所を走って居た筈。

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 かつらざわ橋の奥。前回は砂利が積まれて居ましたが、今回は無くなって居たので撮影できました。道幅から推測してやはり此処は旧R48.

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 今回は中々良い出来です。S建設(親父の分家)の社員さんも居ません。シメシメゆっくり撮影できる!
 無論K興業の社員さんも居ませんし。

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 R48で直線化になった為廃道となったR48.写真の反対車線右折で関山隧道に5キロ程でつきます。
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 無論隧道までは此の車では行けませんが、
 関山営林組合の手によりある程度道が整備されて居ます。だから途中までは入れます。

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 関山隧道山形県側坑門。
 平成20年産業遺産認定により、訪れる方が多くなると見込んで直ぐに木製の柵が施されてしまいました。
 それ以前にこの隧道にパジェロミニで入った方が居り、聞いてみるとやはり県境付近が最も高く、其処から下りスピードが出て、宮城県側ならばハンドルを切りそこなって転落も十分考えられるそうです。

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