平成元年の本日が「何が有っても涙目テールクラウンRS41に乗る!」と誓い30年になります。
その日昭和52年4月よりしばしば遊んで来た63年式RS41、日本交通タクシー色のRS40、この間UPしたコロナRT40D等10数台の廃車が一晩で1台残らず無くなりました。そのショックは凄い物がありました。
その日何曜日なのか調べると水曜日、更に当時は高校受験が終わり(例年3月10日)ノンビリはしていた物の、昼頃廃車置き場に行ったのでズル休みはしていないと記憶して居ますが???因みに記憶はハッキリしなくなって来ましたが3/17か18が合格発表19か20が卒業式だったのです。
当時廃車場の入り口に4t車と思われるトラックのタイヤの跡があり、他に車のタイヤ痕がなかったので、ほぼ間違いなくユニックで乱暴に積み上げてヤードに運んだと判断しました。
その後3日掛けて山形市、天童市、寒河江市、東根市を今も乗っている昭和39年購入のツノダ自転車に乗って解体屋を全て廻りました。然し見付ける事は出来ませんでした。当時探しに入らなかったのは鉄屑回収店で今思えばそこも探せば見付けられたかも知れません。
志望校合格したが、何故か素直に喜べませんでしたが沸々と「何が何でも車庫に眠るRS41に乗る!たとえ無理でもこの車は手放さない!」とだけは誓いました。
人間やれば大抵の事は出来る!は今実感して居ますがこの事件がなければ今の私は無かったと思います。
実際運転をしたのは平成10年。本格的に運転は平成14年からです。今思えば此処まで新車の様なレストアを依頼するとは私は30年前予想しませんでした。
近くをチョロっとではなく、東京や横浜に行く時の最高のパートナーとなり、私運転がおぼつかなくなる日がやがて来るでしょうが、その日が近付くまでこの車に乗ります。
実は最近初代師匠=廃車場の主が亡くなった話を聞きました。廃車場はこの曲がとても似合う感じでした。
私にとって心の故郷、風景であり高村円淨の全てがこの土地でした。決してここを破壊した大伯母を恨んではいません。でも持ち主を教えて欲しかったし、廃車を救済したかも知れない、いやレストアで大きく役立ったかも?大伯母は今102歳となり30年前の様な身軽な動きは当然できません。