新たな事実が判って来ました。
情報提供は「北のおじさん」さんです。以前から探し求めいていた事故の報道をされた新聞が見付かりました。それも、何と!遠く離れた北海道地方の新聞で実物を出しますが知らなかった内容も出てきて「多分こうだろう。」と見えて来ました。
今回の記事でこの写真が重要になって来ました。事故は昭和39年9月22日(火)の午前10時10分頃。宮城県塩釜市より当時22歳のYさんが運転。行き先は当時開通から間もない蔵王エコーライン(昭和37年開通)である事が判りました。これも新聞記事に有りますが、時速40㌔で走行したとあるので、事故現場を時速40㌔で走行できる場所となるとかなり限られ別の写真で検証しますがこのP312は間違いなく、のちの六条家の話になった事故の車両であると断定しました。
今回情報提供を受けた記事です。
やはり六条家一家全員死亡事故と内容が一致します。一部話は変更されましたが自宅に1人子供が残された事は事実として此処でも記載されています。
P312等の写真提供者のマロ7さんの話とも内容は一致。(18歳)の長女が残されマロさんが知り合ったバスガイドさんの年齢も判りました。尚当時18歳の少女は比較的若い年齢で亡くなられたと話を聞いています。
ややもするとその点が独り歩きして「赤子」になりお婆さんが養育した話が有るので一部作話されたと思います。尚さらに詳細記事は当時の河北新報に有り、かなり詳細に掲載されていたそうです。
それが宮城県民の涙を誘い話が一部作話されて今日に伝わる怪談話へ変貌します。
一部この話は1958年に発生とありますが、これは真っ赤なウソです。それとそもそも六条家一家全員犠牲の事故は1964年9月22日と明確に記録されています。
この石碑ですが、当初我が家で取引している石油会社の関係者と聞いては居ましたが、何故そうなったのか判りました。実は昭和39年の事故で父親(当時50歳)も犠牲になりますが、父親が我が家で取引している石油会社の庶務課長で、ここ大事!あのP312の所有者も石油会社の社有車でした。これも新たな事実です。
ですから完全にこの石碑の若い男女は何処かの学校の教職員であった事は間違いなく、石油会社とは無関係です。
さてこれも重要になります。赤い矢印の所にP312がありますが、新聞記事をよく読むと「時速40㌔程で走り、急カーブで山側にぶつかりそうになり」が重要です。
写真の右側道路を見ますと、間違いなく急カーブが確認できます。因みに今までネットに出た情報を検証するとやはりこの写真の部分以外40㌔のスピードは出せそうにもありません。事実良路はP312が転がり落ちている部分付近のみでこの写真の部分だけですし、あとは大変な山道です。兎に角宮城県側は現在登山レベル中級者の実力がないととても登れません。
何度も写真撮影している関山旧街道ですが私の運転でも旧街道は40㌔が精一杯でまして山道ともなると40㌔走行は命取りになる事が十分判ります。
現状では5人乗車ですからRS41より窮屈なP312ではより40㌔を出すには不利な要素が多数絡んで居ます。なので間違いなく写真右側のカーブでハンドル操作を誤り、一番初めのP312の写真に戻り良く見ると左側の破損が大きくガードレールを突き破る衝撃が十分加わったと判る損傷です。
今回の記事の発見は確証が持てる内容でした。
間違ってもこのRS41にあるオーバードライブは新車当時山形県内で実力発揮が出来る道は皆無と云って間違いないレベルでした。せいぜい今の県道22号線ぐらいか?