さて、とらっく とらっく とらっくはもう読み過ぎてボロボロにした事は既に書きましたが、この頃から旧道に対する何となくの憧れは有りました。
大人になって当時トヨペットクラウンデラックスが当時走った道を想像して楽しむのも、この絵本がベースになっていると思います。
以前から栗子、関山の自分なりの検証した記事を書きたいと考えて居ますので、当面この記事になる予定です。
このシーンで昔から想像していたのが、栗子隧道です。(当時は栗子国道)無論関山もそうですが何故か栗子でした。
此れが栗子国道の映画映像です。こんなに曲がりくねった道が当時の一級国道でした。何分自動車が走る道と云う事は余り考えずに明治の道を改良したのがこの頃全国に見られました。あくまで道幅を広げれば良いが当時の考えだったと思われます。
字幕の通り栗子は11月~翌年5月初めまでは冬季閉鎖でした。此れでは全く使い物になりません。=大平集落もそういう所でしたので、移り住んだ米澤藩士も長くはこの地には住めませんでしたし、当家も10年程度で現在の長井市に移住して居ります。
写真のバスは昭和37年8月より定期運航された東北急行と云うバス会社が東京より米沢経由山形行きのバスを運航しました。此れは後に書きますが栗子隧道や二ツ小屋隧道は大型車泣かせの悲惨な道でした。
大平集落にかって住んで居た者の子孫で昭和54年まで存在した大瀧集落在住の方が東京等に出て、実家の大瀧に帰省時大瀧でバスから降りるのが非常に恥ずかしかったと回想されて居ました。
昭和30年代後半らしいですが、山形交通バスの栗子走行の写真。此処を我が愛車も昭和41年までは走りました。
とても狭い道である事がご理解出来たと思います。当時は自動車が少なかったので何とかなりました。
続いてこちらは同じ時期の東京。五輪に向けて工事していました。でも山形とは雲泥の差でしたね。
中央のRS41のトランク側の下を見ると出っ張りがあるので、間違いなく1963年式です。
ややや?この位沈むはクーラー付き窓を開けている車が多い中閉めているはクーラー付きで使用中でしょう。まさか私の愛車????
だったら嬉しい!運転手は大叔父でお向かいの市長を乗せているとしておきましょう(笑)
未だUPしていないいい位置での写真。栗子、関山、名川、雄勝等明治~昭和初年度の道や隧道をこの車は走り抜けて来ました。
8.5万キロ程でメーターが停まって居たので6~7割が昭和43年までの距離かな?記憶に残る昭和52年以降は私は20回前後しかこの車に乗りませんので。