ダットサン123トラックが参加していると知り丁度このトラックが復活して5年。又私が発見から33年となり書いてみたいとなりUPしました。
ダットサントラック123型は実働となるとあと1台有るらしいですが、新車時からのナンバー付となるともう此れ1台しかありません。もう1台東京ナンバーの個体が有ったのですが、放火されて相当前に廃車となりました。
こんなに貴重と知ったのは30歳前後の時期ですが、それまではもっとあるだろーでした。
33年前を振り返りますと今だから書きますが発見した時私は9歳で、当時叔母が山形市本町に有る山形グランドホテルに勤務して居り、食事をしようとなりホテルの裏手の狭い路地からお客様駐車場に入ってしまい、その時発見しました。その時点で現役引退から3年でしたが、隣にはベレットSTDがあり(こちらは現役)古い車が2台有るなぁと記憶していました。
中学に入学する時期にもうないだろー。と思い行ってみると何と未だに残って居り度々山形市まで、時々出すツノダ号で見に行き、高校ともなると部活の帰り週に何度か「押忍!」と挨拶していくのが日課になりました。
何分前の部分は外から見える状態で古ぼけて埃まみれの状態ですから薄暗さからプチ観光に出した宿龍院の十王像の一つ「五官王」に見え、神秘に感じたのです
押忍!をする様になり2年ほどしてですが、ノスタルジックヒーローに嵌り、今度は「このトラックを何れレストアしたい!」の気持ちが芽生えました。当時市内には113型セダンの廃車(昭和44年車検切れ)がありこれを部品取りにしようまで考えました。あの当時ですから、屋号は全て消すと考えて居ましたね。
然し大学に進学して「やはり自分が何が何でもレストアしたい車はRS41である」と云う思いと書類が無い!と判り、もはや123型の事は完全に頭から離れて居ました。国家試験、就職とありこちらが主ですからより忘れてしまいます。
大学卒業後の進路は決まったけれども、本格的泥沼に陥り最終的にはフレーム入れ替えで対処し、本当にスッテンテンになりました。
平成12年にレストアはとん挫しかけ、その時ふと123型を思い出し「レストアしたい」と云う地元山辺町の方が現れこの方に託そうと考え、場所を教えました。実はその少し前ですが京都のマニアが救出を名乗りでましたが、写真撮影まで行った物の、引き上げは断念しました。
今度は地元だし、見たい時に動く姿で見られると思い場所を教えました。すると・・・
この年オーナーが亡くなったとなり、未亡人が「夫の形見なので手放したくない」となり、断念したと云うのです。
この時期はお袋もお婆ちゃんも未亡人となり久しかったですが(お袋は昭和62年、お婆ちゃんは平成3年になる)何とまぁ強い事、夫々の形見はあっと云う間に全て捨てたのです。結構この時期1960年代の旧車を「夫の形見なので・・・」と手放せずガレージにシングルナンバーで残す事例が良く聞かれました。
同時に当面は無くならないと安心しました。
時が流れて平成21年になると遂に手放す決意をします。実はその少し前から手放そうとして数か所のレッカー業者に引き上げ依頼するが出来ないと断られお手上げでしたが、この年山形市本町で通行止めにして工事する時期があり、その時期に引き上げるとなり、東根市内の整備工場が名乗り上げて引き揚げました。相当大変な作業だったそうです。
もう一台ベレット1300STDもあり、その時期には不動車となり工事での通行止めがなかったら永遠に引き上げ不能だっただろうだそうです。
タマタマ現オーナーにその3年前に知り合い、話をしていました。ダットサンにとって余生を過ごすのに最高の場所と考え情報を流して居ました。更に価値観が同じなので「ここしかない」でした。
平成21年に引き取り、登録に向けて調べると意外な歴史を垣間見る事となりました。
「実はワンオーナーと思っていたら、2オーナーで然も初代オーナーが職場の元上司のお父上である事が判りました」
現在登録証明書の話をすると旧車は特に昭和30年代は初めの記録が無いと云う話しが聞かれますが、このトラックも例外なくありませんでした。タマタマ上司から「我が家にはクランク棒で動くトラックを村で一番に買った、その後は当時出たばかりのダットラを購入した」と聞いて居たので、まさかと思って写真をお借りしたら、まさにそれ!たまげました。
このトラックの場合昭和32年7月登録は間違いないけど、手放したのは43年5月頃との事で証明書に残る「昭和43年6月2日移転登録 神鋼電機商会」があり間違いなく2オーナーを確認しました。これがスタートです。
つまり山形県は46年4月1日に登録事項はコンピューター管理になるが、それ以前の記録はその時点で登録された記録のみしか残らず、紙台帳で管理していたデーターは消していた事が判ります。
当時11年オチの車を購入する。然もサービスカーに使うとなると本当に激レアな話です。その歴史も重要だと思いますね。更に上司の話では「ウチのトラックは水色ではなかった」と証言しており現オーナーと詳細に調べるとやはり水色ではなく「くすんだ緑」である事が判明しました。つまり神鋼電機サービスカーの色と思われ、当時メーカー指定カラーの色にするとメーカーから補助金が出たそうです。又この車はダッシュボードまで同じ水色なので、初めからこの色と思って居ました。
11年オチにここまで徹底するか???と驚く個体ですので、これだけでも凄い個体なのです。
更にこの車全く不動期間も税金滞納が無い事も驚きました。きちんと納税証明書の束も有ったのです。
車検証も見ましたが、昭和53年7月更新時期が最後でしたが、初年度登録が「57年ー月」だったのです。となると私の車も当時は「63年ー月」でしょう。此れは年式打刻制度の名残です。制度廃止後購入のカローラKE20だと「昭和47年6月」となって居る筈です。
現在このトラックのナンバーは山形県では最古と思います。封緘が2つ付き、昭和33年より1つになったので国内でも古い方でしょう。又この時期現在のナンバーに変更になり2年1か月ですが、当時4ナンバー枠は此の車で山形県では1504台しかないと判ります。当然30年6月以前登録の車も全てこのナンバーに登録ですから他のナンバーを入れても恐らくは2000台は山形県内には自動車その物は無い筈です。
この車はエンジン、電気系統、(配線引き直し含め)その他シャーシ周りは全てOHしております。新品部品も結構多用しており、やっとこ走るレベルではないです。その気になれば日本1周だって可能ですが、流石に人間が持ちません。
現オーナーに登録は平成22年10月4日です。
今回は見つかった写真でお話をUPします。
此の位置からの写真を発見しました。実は右側は外に出るまでの31年間全く日に当たって居ませんでしたので、結構綺麗なのです。
この写真が2オーナーを証明します。よ~く煽り板を見ると、TEL 2-2987 とありますが昭和30年代には無い局番です。我が家はRS41購入した頃電話を引きましたが、当時は今の局番の末尾4桁で山形市へも掛ける事が出来たし、電話番号も多くは末尾4桁だけの筈。
明らかに昭和40年代以降の表記ですし、大抵は塗り直してまで新しい電話番号は書きませんし、現車を見れば直した痕跡も無いので昭和43年に11年オチで買った事が証明されます。
引き上げ直後の写真です。バンパーは昭和57年当時はグリルと同じ白でしたので現オーナーに知らせまして今の色です。
車検は昭和54年7月で切れ、整備は高校時代の同級生のお宅の整備工場で実施したみたいです。(現在は廃業)
イメージとしてダットラが新車の頃の上司の在住地区の様子。明治時代と変わらぬ風景で本当の農村でした。こんな風景にダットラ123が有ったのです。
初代オーナーは明治44年生まれで平成22年に99歳でお亡くなりになられました。村で一番初めの4輪車で当時消防団で使う事も有ったそうです。
嫁ぐ10年前ではありますが、そんな風景の場所から当時山形県1番の都市に行くからさぞやダットラは驚いた筈。山形市本町は当時は県庁所在地、更に商業の中心地ですから今以上活気がありました。
写真の信号の上に三角の屋根が見えますが、多分此れは当家の親戚の笹沼玩具店かな?お寺では無い筈
丁度ダットサントラックは此の小学校の前の反対の入り口に生息していました。昭和初年度に建った県内初のコンクリートの小学校でアールデコ調の貴重な建物と云う事で残って居ます。
そして山形旧県庁。茅葺屋根ばかりの土地にこういう建物がゴロゴロですから、ギャップは相当でしょうね。グランドホテル隣から歩いてすぐですから、村から見れば物凄い都会です。