仙山線の思い出は昭和43年10月以降平成14年まで仙山線の主であったクハ455ですね。山形ミニ新幹線が福島ー山形間で工事した時クハ455が奥羽本線に入線する様になり、その頃良く乗り時折乗る仙山線の車両を嬉しく思いました。
12月3日の追録として、平素から仙山線はこの季節は倒木が無いか運転士は注意を払いながら運転し、倒れそうな木が有った場合でも直ぐ仙台運行指令所に連絡する規定になって居り、次の列車は遅れらせたり、場合によっては運休処置をしますが、当日は吹雪の為視界不良で事故前に通った列車の運転士は木の様子は確認できなかったそうでした。
その為仙山線の運転士はベテランが担当する事になって居ます。
今は鉄道博物館に収蔵されましたが、訓練車時代のS-1編成のクモハ455-1。平成3年~17年まででしたが、当時455系では国鉄色はこれ以外無かったので運行するとなると何処の路線にでも「撮り鉄」が押し掛けたそうです。
写真は借り物ですが、中央の教官と訓練生が笑顔ですが極秘で運行した筈ですが「撮り鉄」が何人か居たから「あれ~?どうして判ったんだろ~?」と苦笑いしています。
写真の右側車輛(モハ454-1.クヤ455-1)は鉄道博物館収蔵前までには郡山工場で解体になりました。
思い起こす事は平成2年、モハ454-1で私はまたもや蛮勇を振いました。当時クモハ455-1側が喫煙車でしたが、モハ454の車内でオミズ系の女3人が喫煙していたのです。無論皆さん関わりたくない状態でしたが、先ずは「あの~ぉ、此処禁煙車両なのですが・・・」と低姿勢で出てそれでも辞めないから「此処は禁煙です!隣のクモハ車両で煙草を吸いなさい!」と一喝。
それでも辞めないから車掌を呼び出すと吸殻をポンと投げ捨て3人は退散しましたが、「コラ!吸殻持って行け!」でした。
友人は「お前すんげ~ナァ」でしたね。注意したのは後に紹介する、写真で解説致しますが、先ずは煙草を禁煙場で吸われるのが不愉快でしたし、現役柔道部ですからチンピラの一匹、二匹が来ても投げ飛ばす自信が有ったのです。
此れは国鉄時代。この時代の455は乗った記憶がないですが、急行仙山時代の写真。恐らくお爺ちゃんは国鉄を引退して久しい筈。車輛はクハ455-39と云う事なのでこの部分ならば昭和40年製造です。
これも借り物。急行現役当時のクハ451,453、455でも10番までの共通車内。昭和40年製造までの特徴です。
上端の左右を見ると網棚が本当の網ですよね。この車両が私大好きなのです。此処がキハ58に繋がる好きな点です。
モハ450、452、454-10まではこちら。クーラーの配置の関係でモハは独特の天上です。
実は私、この網棚車輛でああいう事されると腹が立ったのも有って注意しました。それにこの頃はお爺ちゃんが一番働いた頃。事実上子供5人を育てる為必死でしたし、今住んで居るウサギ小屋のローンもあるのでそんなお爺ちゃんの姿が見えるのがこの時代の車両です。
写真はモハ452-1ですが、よ~く中央見るとグリルが見えますがモハ450、452で見られた特徴で冷房の熱気を排出する通風孔でした。
昭和54年に一部改造して455-200番代に編成された車両もありました。此の車輛に乗ると私は嬉しかったですねぇ。柔道部の仙台遠征で仙山線に乗った時タマタマS-202編成があり、こちらに向かい走って乗りました。昭和38年、39年製造編成でした。
鉄道博物館絡みで訓練車時代のクハ481です。此方は昭和40年製造です。山形県には入線しませんでしたが好きですね。