今回は何度か出した地図に沿って走りました。結論から書くと地図の④から⑤までは旧道は現存、特にこの区間は当時のままであり、貴重である事。
⑤から②区間は赤い図示の道に準じたルートは現存。但し改良工事で幾らか図示からはずれる。又別ルートでは道が外れる。
後でUPしますが、向原から原宿間は基本山であったと推測しています。つまり昭和38年の現道工事で開かれたのです。それにより、旧R48の通りは忘れ去られ、谷間の集落と見做されました。
この地図なしでは語れません。今後もたびたび出ます。
⑥です。写真参照。恐らくここも旧R48と見て良いでしょう。
④から⑤区間。モノクロでシングルナンバーでも下げたら絶対昭和40年当時とUPしてもばれない雰囲気です。
実は⑤の表示部分付近にこんな物が落ちています。
この年代の車は明るくないですが、多分トヨタのコルサとか云う車だと思います。トヨタ初FFらしいですね。
もう残存は20台あるかどうかとか???
⑤付近。ここでいきなり道が新しくなります。そのまま右折します。
左折すれば仙台へ、右折すれば悪戸へ此処は勘がものを云います。
名物草ヒロ。関山の草ヒロとしては有名な物件です。これも余り興味ある物件でないのでワーゲン以外判りません。尚隠れて見えませんが、もう一台奥にサンバートライがあります。
②へ到着。ここは高崎村村長「村山和十郎」の生家。
村山は初代山形県令三島通庸と親交があり、あの鬼県令を「三島君」と呼ぶ仲でした。村山は明治30年代に村民の一部を引き連れて北海道へ渡り、大正時代に69歳で亡くなります。(実は明治34年奥羽本線開通で関山もそうですが、栗子も寂れて峠に出来た集落が過疎化する事態に陥りまして、昭和初期に入るまで続きました。これ等集落は自動車の普及で息を吹き返します。
尚村山和十郎生家を右折して仙台ですがここは、恐らく山の中腹の集落であったと思われます。又ここから1.5㌔程で旧かつらざわ橋へ辿り着きます。
左折すると高崎地区の原宿になりますが、恐らく1キロしない場所で山にぶつかるとは思います。
*参考まで、実は関山峠を開拓する際、小山田新道=猪野沢ルートもR48の候補でした。
そこで関山ルートと猪野沢ルートではどちらが早く作並に到着するか競争しましたら関山ルートでしたが、関山には複数人の走り手が居後り、猪野沢は1人だったので、関山が当然早いとなりました。
もし猪野沢ルートに複数人居たら・・・歴史が変わっていたでしょうね。