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Channel: 高村円淨のブログ
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8/21以降のイベントに備えて

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 ホワイトリボンタイヤから6.00-13のライトトラックタイヤに交換しました。やはり高速走行は当時物タイヤでは不安ですからね。
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 がぉぉぉぉ~!

 こうなると厄介なのでピンク怪獣とうさちゃんがお昼寝したのでその隙に交換です。
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 交換しました。
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 今田圃は青々しいべぇ~。


参った!烏の奴には

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 今年はこれからシャインマスカットとピオーネを定植予定の場所にトウモロコシを植えましたが、全く烏に喰われず油断して烏よけ糸をしなかったら・・・・
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 番号を書いていない房が1つやられました。旨い所を食べます。
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 こんちくしょ~!棚の周りに糸を張ってやる!
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 お盆明け以降人参の種を植える予定です。
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 来年食用菊を定植予定で今から緑肥で土作。
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 シャインマスカットの棚の前に玉葱定植予定で一度米糠をすき込んで更に振り掛けました。
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 元不耕起現場でここには枝豆を植えて収穫し綺麗にしました。



難攻不落のオーバードライブ

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 私が1963年式以外はもう眼中にないとなったのは、平成3年のニューイャーミーティングだったと思います。
 当時RS40系の部品は殆ど底値だったみたいで、まずは何が何だか判らないけれどもある部品は兎に角買えの精神で買いました。むろんこれは高校生の小遣いの範囲ですから限界はあります。

 そのニューイヤーミーティングで決定打になったのがカタログで、当時1万円だったかな?値引いてこの額だったかもう少ししたかの価格でした。
 尚カタログについては「おもちゃ、カタログ等」の項目でもかなり初期の方を見ればそのカタログがあります。

 オーバードライブのシステムは判りにくかったけども、自動的にランプが光って4速、5速の役割を果たすとは凄い!と思いました。そんなシステムがあるならこりゃ~絶対にRS41に乗らねばなんねぇ~!でした。

 平成3年のニューイヤーは部品はロクな物は買えませんでしたが、17歳の餓鬼の心を鷲掴みされて他の旧車には浮気しないとなったきっかけなので結果的には大きく元を取ったとは思います。もしこのカタログが無かったら・・・・このレストア困難を乗り越えられたか???
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 この光を見たい!そしてどうなるんだろうか?その一途で復活には大変な苦労をしました。

 実はここで書かねばならない事として、当時のフルサイズカーの主力オーナーはタクシー業者でした。彼らが望む車とはコラム3速で、余り民意に沿わない流石のプリンスとて、3速プラスODと云う形で4速目をODにしましたが、セドリックは1963年モデルまでは4速でしたが、これはトラックから来ている作りでライバルの1速が2速に該当し4速とは云えど事実上は3速モデルでしたが、どうも当時のタクシードライバーにはウケが良くなかったそうでした。但し関山峠だとか栗子峠(当然旧道)を走るにはこのセドリックの4速は物凄い威力を発揮しました。
 徳大寺有恒氏は「当時の日産は田舎の需要に応えていた」とありますが、こういう点が挙げられます。(因みにこれは著書には無)鈍重な大型が前にいれば否応なくローで無いとストレスが掛かります。

 クラウンにオーバードライブが付いたのは昭和33年10月のRS21から。実はひょんな事でつきました。
 
 モーターエージで紹介した中村主査の部下で肩書のないMさんがクラウンRS型を中古で購入した時改造してこのRS21以降のオーバードライブを取り付けました。
 それを見た中村氏は

 「それ中々良さそうだな!よし、このシステムを量産化する為の設計をやれ!」と命じて1959年式モデルから採用となりました。
 将来は高速道路網が完成し、3速コラムだけではいずれ売れなくなる日が来るのでこのシステムが合理的となった様です。
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 復活当初オーバードライブボタンは物凄い力で引いても引けず、何をしても戻りました。全然作動する様子もなく、カタログ通り操作するがランプひとつ点きません。
 そこで平成16年師匠にお願いして修理して頂きました。分解結果機構的には何も問題がなく、ギヤは綺麗との話でした。
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 ギヤ本体も傷んではいません。スタンダードミッション含めて歯は欠けて居ませんでした。
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 犯人は電装部品でした。写真はソレノイドSWでオリジナルは全然作動しない。そこで中古の1964年式最初期の物をOHしました。
 何とこの部品は廃車の少し前に新品と交換した物らしく、磁石の程度もストックの中では一番でした。
 現在はスペアパーツになりましたが、そもそもスペアーで入手した昭和41年式のMS41から外した、殆ど走らなかった個体の物をOHして今走っています。

 程度に関してはこの写真のSWの方が良いので、そのうち交換となるかも知れません。尚MS41は昭和51年廃車で2万キロ程度走った個体です。
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 これも犯人でした。ゼネレーターですが私の車は永久磁石が全然ダメで、発電量も2Ⅴ程度。本来は866回転で8.5Ⅴです。

 これも1964年式の前期型の物。今は更に調子がいい物を入手し磁力が強烈だった何度か出したクーラー温度SWや取扱書のドナーだった昭和41年式MS41からの移植です。

 他にリレーは元の物は完全に逝っており、1963年式の元ホステスさんの愛車だった廃車個体より移植。その後都内の基盤修理屋で修理しより確実に作動する様になりました。

 キックダウンSW等は新品が出てきたのでそれに交換しました。然し・・・・それでもオーバードライブはマトモに作動しなかった時期があり、最終的にはデスビにキックダウンSWが結線されておらず、結線したら見事に解決しました。

 一時はオーバードライブは全て新品部品で賄える人以外は楽しめない代物と思い込んでいましたが意外な理由で作動がイマイチだったのです。
 でもそれ以前にオリジナルのままでは永久に作動しない代物だった事でしょう。

 システムを理解し本当の意味での作動までは結構な時間を要しました。レストアで苦労した部位の一つがオーバードライブ機構です。

今年もヴァケーションを歌いながら

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 名川隧道にやって来ました。
 しかし!異変が・・・・・

 そもそも滅多に見学コーナーに入れませんでしたが、今まで入れた見学コーナーすら閉鎖されていました。

 時間がなかったのでなぜこうなったのか聞けませんが余裕でたら聞いてみたいと思います。まぁ来年でしょうけど。
弘田美枝子の元祖です。ヴァケーションは日本語の歌でないと懐かしさが感じません。

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 ここまでは毎年の名川隧道撮影でしたが・・・・
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 閉鎖にがっかり!
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 もう内部撮影は古い写真の使い回ししかありません。
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 最近発見した新たな内部写真。むろんここもトヨペットクラウンデラックスは走りました。




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 ここは何度見ても懐かしい。暑くてトランククーラーを効かせて走った物でした。



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 今年は7月下旬に雨が続いて中々撮影できず天気が良いと仕事だったりピンク怪獣の飼育で出られません。そこでお盆の13日を使い撮影となりました。




秋野菜の定植

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 枝豆とトウモロコシが収穫終了に伴い人参、キャベツ、白菜、大根の一部の早出しの為の定植、種まきを行いしました。
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 ここは人参です。自宅前ではトマトの隣に撒きました。人参が遅い種まきで、本来は7月中旬が望ましかったけど、枝豆があったので遅くなりました。
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 キャベツの中生、人参、白菜2株。以前寒冷紗の中に白菜入れたら失敗したのであえて寒冷紗なし。ここは元不耕起現場でしたが別に害虫に喰われても悔しくない2株としました。
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 キャベツ早生3株、晩生4株、大根早出し分。
 そうです、早出しは郵便局の秋刀魚目当てです。今年もデッカイ秋刀魚を買います。
 家庭用グリルには収まらない大きさで、これを買うには、山形市内の老舗デパートに行かないと買えませんし、郵便料金含めても郵便局で買った方が1尾当たりの単価は安いです。
 まして、山形に来るまでには山形中央卸売市場も回らねばならず鮮度もそこで落ちます。
 海はありますが、海なし県に準じているのが山形県の特徴です。漁港が小さく自魚が食べられず宮城県産や岩手県産を殆ど消費します。
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 自宅前の人参と白菜4株。ここに枝豆があったので収穫終わるまで待たねばなりませんでした。


日本に装着された個体が殆どないので

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 修理しちゃった!がこのトランククーラーです。

 私が最後に作動確認したのが昭和56年8月10日前後の頃蔵王登山に行った時です。あの日珍しく親父が運転が大の苦手なのにも拘わらず、「クラウンで行くぞ!」でした。多分ですが従弟と叔母(お袋の妹)を乗せるからかな?
 但し今の状態と比べると冷え具合がイマイチだった記憶がありますが・・・・あれ?段々とスピードが出なくなり遂にオーバーヒート・・・・

 いや、夏の思い出を語るのではありません。

 結構このクーラーの部品探しは苦労の連続でした。

 15年前の時点で「多分あるだろー」と思うマニアを片っ端から当たりましたが悉く敗北。
 ですからガスはR12はしたくないし、部品もないので、如何なる手段を取ってもいいので作動する様になれば良いやで復活させたのがトランククーラーです。

 現在作動するかどうかは別としてトランククーラー付で残る個体は5台程度(これは完全な廃車体も入ってと自分の車を入れてです)何分当時は本体は然程手に入れられない価格ではなかったが、取り付け工賃が不当に高く恐らく1963年式に関しては25000台生産中100台がトランククーラー装着で、ダッシュタイプは多くて200台かな?と今見ています。

 更に不当な取り付け工賃を支払った挙句、物品税が10%果然ですから取り付けとなると躊躇するのが普通です。然し今は行方不明の親戚で使用者名義の婆ちゃんは簡単に「お父さん(ご主人)の車に取り付けたついでに高村さんの車にも付けといたわよ。」・・・・参った。
 
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 この写真をフツーに見るのは意外や困難。トヨグライド装備の涙目テール以上難しい筈。廃車体でない個体のうち1台は博物館もう一台は今修理中だけどどうなったかな?(クーラーではなく車本体)
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 エアコンのつもりなのか?尚今も不思議ですが、本当にエアコン登場は昭和40年7月以降のモデルからですが、クーラーより価格は安く、トランククーラーより5万程度安いのが不思議です。
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 これも苦労しました。この写真の姿になったのが昨年の11月からこのグリル小学3年~4年までの間に破損させ悲惨な姿でしたがこの部品は平成5年頃から探しましたがすぐに見つけたのが解体屋で、ウィンドーウォッシャーの記事の頃盛んに出したあの廃車から。

 然しこの廃車から手に入れたのは15年後の平成20年ですがそれまではクラウン8用を使っいました。しかし悲惨な物で冷風は運転席には殆ど届かず後ろだけ集中的に当たり、まさに「壊れかけのトランククーラー」の状態でした。通風孔を調整したけど中々ダメ。

 約30年ぶりにオリジナルに戻すと何て快適な・・・・で、今はより程度が良いし、グリル側のエバポレーターを清掃し、これも度々書いたオリジナル温度SWにしたらより効果的に効くようになり、もはやクーラーなしの車は乗れないな!
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 これは新車当時からのSW。但しこのノブはFANのプレートが紛失しており、仲間が所有するマスターラインライトバン(昭和42年式の部品取り)から程度が良い綺麗な物なので物々交換でゲット。
 その時他にあったMS41F(スーパーデラックス)のドアのインナーゴムもゲットしてオリジナルに戻しました。
 実はレストア時同期生の所でオリジナルはズタボロに切り裂かれてダメになりました。
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 何度も書いていますが、探すのも大変でしょうから改めて。
 本来はリヤ側に付きますから、これはオリジナルではありません。昭和40年7月以降の角テール以降の仕様です。でも私の車はこれと思われるSWの取り付け跡があり、乱暴に引き抜かれた様子で真相は判りませんがこのタイプに改造。絶対的にこちらが実用的。

 尚、このSWは昭和41年式MS41DXより移植しました。(製造は昭和41年2月製造)
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 これは意外や入手できないファンシュラウド。オークションでも競争率が高い。何分丸テール含めて中々クーラーを取り付けられない時代なので物がなく競争も激化します。羽は5枚羽になりますのでより効果があるでしょう。
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 コンプレッサ。この間プーリー付近を修理したばかり。この大きさは尋常ではなく、パワーが喰われる事が良く判ります。ブラケットはオリジナルではありません。オリジナルは書類紛失のフレームと逝ってしまったエンジンと共に溶鉱炉に放り込んで来ました。
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 冷蔵室。よ~く冷えます。無論車内もよ~く冷えます。
 でもシステム修理から15年。そろそろ大掛かりな修理かな???
 それと毎年本体含めてエバポレーターは清掃しています。4年前は分解清掃も行いましたが、フィンには余りゴミがなく酷かったのはラジエター前のエバポレーターでした。でも清掃後はよ~く冷えます。
 これを読んでいる皆さん、エアコン清掃はマメにする事をお勧めします。

 レストア賞につながる記事はそろそろ終わりかな?

 8/21の表彰に「中々マトモに使えないで賞」でもあれば私のクラウンが該当しますね。先ず1年間で修理なしで走り切った年がないですね。

 クラウンRS41は無理な設計もありトラブルが多いのも特色です。いままでUPした事は表彰が無くとも毎日UPを目標なので強引に記事になりそうな物を出すのでPR合戦のがてらUPしました。

 でもこの「中々マトモに使えないで賞」はピッタリですね。これは受賞したい。梶ノ目さんどうでしょうか?

昭和42年式か?RT50

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 今年の初めに発見したRT50ですが、同じ市内に住む67歳の方がオーナーで、それも主治医すら知らない完全なマニアと交流が無い旧車オーナーさんを発見しました。
 でもこの個体一寸判らない点があり疑問符が付きます。実は私昭和42年5月までの一回目のマイナーチェンジ以降のRT40は興味が無く、42年6月以降は全て同じに見えてしまいアヤフヤなのです。

 またこの車ナンバープレートから判断すると昭和41年式でありマスクに既に待った!がかかります。
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 先ず、山形5は「す」は昭和30年6月~40年に入るかどうかの時代まででした。
 「せ」その後から昭和41年の初めまでで、この頃から徐々にマイカーが普及し始めます。
で、「そ」は昭和41年一杯である事は確認済みですが昭和42年は入るかどうかは疑わしい点があります。

 昭和42年は「さ」が本来です。ですから昭和42年以降の顔なのに「そ」の初めなので疑問符が付きます。
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 オーナーさんは昭和45年に中古で初めてのマイカーと云う事で購入。而も壊れやすい消耗品は既にストックが沢山あり、レストアはここ数年で行ったとの事。
 長年のオーナーらしい用心したストックです。因みにナンバーはレストア時再発行してもらったそうですので新しいですが、昭和45年は「ふ」~「み」辺りですから「そ」は発行されません。
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 5.60-13のリボンタイヤは3本ストックありだそうです。ホイールキャップもストックあるけど1台分しかなく普段は外しているそうです。尚この車庫は壁が無いので盗まれるリスクもあります。
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 近年では山形でも珍しくなりつつある3世代同居のお宅で孫さんが居り、どうやら将来乗る様な感じが見受けられました。年齢は4~5歳程度かな?丁度今の愛車を引き継ぐと決めた頃の私位です。
 因みにオーナーさんは元々は自動車販売の仕事をしていたそうです。
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 このテールの形状では昭和43年式ではないのは確かです。
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 一番の感心事は楕円形の東芝ライトです。これは私の好物です。

 *実はこの車がある所はいつも給油する出光スタンドへ行く近道を3年程前発見し、ずっと通って来ましたが、今年になるまでこの車は見る事はありませんでした。
 その間レストアしていたのかどうかは判りませんが、「え?何でこんな所に旧車が有るんだ?」が初めて発見した時の感想です。

いしゃ先生 志田周子

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 今年映画化された「いしゃ先生 志田周子」ですが、実際大井沢診療所が出来る前、或いは外科治療が必要となった場合大江町左沢(あてらざわ)へ行かねばならず、どの位大変な物かクラウンRS41に乗って調査しました。
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 以前のプチ観光にもこの件は出していますが、戦前期は陸の孤島と云われ恐らくこれから紹介する峠から今の大江町柳川等を経由しないと村外に出られない悲惨な所でした。
 当然医療機関は無く、我慢に我慢をして医療機関に向かう時にはもう手遅れと云う事例は実に多く、それを解消する為に周子は父親の命により医師になりました。

 大井沢診療所は昭和10年頃完成し36年末までありました。37年7月に周子は没するとその後は再び無医村になり今に至ります。但し戦後はR112につながる道が出来、徐々に自家用車も普及し西川町や寒河江市等に受診する事になりました。


 YOUTUBEより。因みに志田家はお婆ちゃん(親父の実母)の分家で大井沢の中村に多い苗字です。
 今志田周子と親父の遺骨の一部は同じ土に埋まっております。早く亡くなり婿入りしたので、親元に一緒に埋めたいとなりこうなりました。
 志田は51歳(享年53歳)親父は43歳(享年45歳)で亡くなりました。

 恐らく今向こうの世界で色々私の悪口やら何やら話しているかな?「僕はバカ息子1人と娘1人出来たよ」とそれか「バカ息子を遺したけど心配だとか」

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 映画化以降整備されましたが、それ以前は本当に医療機関なのか?と思いました。
 それでは大井沢診療所から大江町に行く峠までメーターを参考に距離を測りましょう。

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 ここは大井沢の奥側で見附(みつけ)根子(ねこ)付近です。親父の実家がある萱野(かやの)から大分進んでいます。恐らくですが峠は県道27号線をまっすぐ行った所だと推測しております。
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 ドンドン山奥に行きます。8/13なので親父を迎えに行き、親父と一緒にドライブします。
 「親父、俺は運転が上手いからな!任せておきな!」
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 このガードが有る=冬季閉鎖になるのでしょうね。今の時代は閉鎖しても問題ありませんが、戦前期は閉鎖は出来ませんので、恐らく病人をソリに乗せて引く時、命がけで峠を越したと思います。
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 今では大変立派なトンネルがありますが、当時は険しい山道でした。こんな立派なトンネルあっても冬場は閉鎖されます。ここまで診療所からの距離は7.5キロ。更にここから柳川等を経由して左沢なので恐らくは20キロは歩く事となると思われます。
 
 やはり大井沢診療所が無いと村民は病気に掛かると死ぬしかないと思われます。

 志田周子は現在の東京女子医大に入学しますが、(高等学校は現在の山形西高等学校)山形に行くにせよ、東京に行くにせよ、村を出るには皆この峠を越さないと行けません。左沢からは国鉄左沢線に乗り、山形に出て奥羽本線経由で東京などに行きましたが、山形に行くだけでも今の感覚なら東京へ行く以上大変な物ですので、東京は外国かそれ以上遠い所へ行く以上の大変さがあったでしょう。

 因みに伯母(親父の姉)はこの峠を過ぎて程なくした所のM家の本家に昭和21年嫁ぎました。その伯母も5年前87歳で亡くなりました。
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 余りに立派過ぎるトンネル。
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 30年前に完成しました。



本日の作業

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  スミチオン乳剤1000倍とストロビー1000倍混合散布。葡萄全てに散布した。

  クラウンが無い側の棚で68番が烏に喰われる。前回は番号なしが喰われる。

  
  

六十厘超

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 現在のR112が開通したのは昭和54年の事。それまで六十厘超と呼ばれた旧道がR112で鶴岡に行く道でした。とても狭く難所で「まん~ず六十厘ごえは大変だっけべゃ~!」と云う年配ドライバーは結構います。
 以前紹介いした名川隧道もその途中にありトンネルはあそこ位だった記憶があります。
 現在六十厘超は廃道ではなく人が歩く道125㏄以下のバイクや軽車両用の道としてきちんと整備されています
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 まずはその途中の大井沢への道。ここは戦後作られ
此処から山形交通バスが山形市から直通で走っていました。大井沢へコメを買いに行く為に設けられました。
 昭和57年か58年頃で寒河江ダム建設に伴い水没し今は通れません。
 写真真ん中の大木が生えた所に道がありました。
 尚昭和47年以降は大井沢へはこの車では行ってはいないと思われます。あくまで私の代で初めて行きましたし、当時の茅葺住宅は見ては居ません。
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 さてここは旧朝日村の田麦俣。昭和53年の夏トヨペットクラウンデラックスでここを走りました。当時は今と同じ舗装道路でした。
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 今は2件だけうやうやしく建つ茅葺屋根の住宅ですが
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昭和53年はもっとありました。写真は昭和35年(1960年)です。

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 「いんや~、砂利道で狭いっけべや~!」これも昭和35年です。
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 今はこの様にひっそりとなりました。
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 「ママ!キャラメルコーン食べたい!」とか「森永のラムネ食べたい!」がこの辺りでしょうか?
 名川隧道付近ではエビフライやジュースを飲食した記憶が?????

 因みに山形5ナンバー時代お袋がこの車に乗ったのは昭和56年8月が最後と記憶しています。


秋田に行きました

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 随分前秋田へ車で行くとなると隣県にも拘わらず遠くて運転がおっくうで特に市内へは余り積極的には行こうとはしませんでした。
 然しブログで中々見られない旧車がワンサカ来るとの事でここは気合入れて参加しました。
 道路事情も改善して以前より2時間早い3時間程度で秋田市内に着く事が判りました。

 実は秋田の特に内陸部のイベントはかつて参加していましたが、残念ですが見学者のマナーが悪くて参加は見合わせましたが今回はそういうマナーのない見学者はなく良いイベントでした。

 今回は写真を沢山撮りましてオールオッズまで持つ感じです。期待していた車の参加がこのたびの台風で参加がありませんでしたがそれを挽回するべく凄い車が参加していました。
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 その1:プリンスグロリア。唯のS40系ではない。
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 このグリルの繊細さはまさにプリンス自動車の証。
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 白玉封緘の主治医の車。このナンバーで山形は白玉封緘が終わりになり非常に貴重です。
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 このサニー自体先ず残って居ません。初期型、中期型(昭和43年の8月まで)の赤色内装のB10は恐らくこの車以外ないのでは?のレベルです。
 もしご存知の方居ましたらお知らせください。

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 主催者の梶ノ目さんのバス。これはエンジンです。
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 ここも懐かしい作りです。


これぞ大物!

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 今回の参加車両の中でググ~ッ!と来たのがこれ。
 実は今回CCIさんが楽しみにされた初期の縦目セドリックと現行ナンバー制度が出たばかりの時期に登録されたナンバーを下げたトヨペットトラックの参加が予定されましたが、セドリックは青森県在住のオーナーで、激しい雨で不参加。トヨペットトラックは車がダダこねて動かなかったそうです。

 然しそれを吹き飛ばしたのがこれです。

 プリンスグロリアデラックスS40D-1

 2型の安物ではないですよ、超豪華な1型です。このモデルは殆ど残って居ない上、発売当時全く売れずに大量在庫を抱えてプリンス消滅の一役をかった車です。ガソリンは私のクラウン同様ハイオク指定車両。

 プリンスなのに1型と2型で価格格差があるのは、昭和38年6月にスーパー6(S41D型)発売に伴い、デラックスはスーパー6を豪華にする為にデラックス1型の内容を引き継がせ、デラックスはコストダウンを図り1型より17万円引き下げガソリンはレギュラー仕様にして2型へ変わりました。

 価格は昭和38年9月製造分からなので1964年式からとなりましたので、1963年式は旧デラックスとスーパー6共に豪華でした。

 1963年式S40型は恐らく私の愛車と同じ台数しか残存していないと思われます。後で紹介しますがシングルナンバー付で自分が確認した中ではこれ入れて2台。
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 これですよ、これ!もう興奮しました。
 私がかつて持っていたイチコーのブリキその物の色ですから益々興奮します。
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 1型モールの最大の特色とエンブレム。この組み合わせはみられませんで!
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 左右前後ともドアバイザー付。これはS40、41共に非常に珍しい!凄すぎる!
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 純正プリンスの刻印付き。更にこれは凄い!
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 この西陣織の生地は凄い!RS41よりは絶対に高いだろう!然し・・・・
 大量の不良在庫を抱えた時、長く残ったこれらはシート生地に多数のシミが付きました。どうやら暑くて糊が変質してシミになったみたいです。
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 これぞ純プリンス。
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 ライト枠もこの時期が一番コストが掛かっています。

これぞ大物 その2

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 更にこの個体は凄い事に新車時塗装です。これで残る個体は今時そんなにありません。
 そしてナンバーも新車時の「青5」です。
 概ね私の車と同じ時期の登録と思われますが、この時期青森は5ナンバー枠は6000台を越しています。
 人口も多く、かつ自家用車を購入できるユーザー層が山形より多かった事を現します。
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 オーナーさんの好みなんでしょうね、オリジナルの丸鍍金ミラーなら良かったけどミラーが明らかに非オリジナルで残念です。
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 このナンバーに山形が入ったのは昭和39年の初めです。(39年2月~3月)因みに38年と39年では登録台数がかなり違うのは全国的な傾向です。
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 注目はナンバーフレーム。中々これが付いているケースはメーカー問わず無い物です。封緘も剥がした後はなく当時の純正かもしれません。
 これは凄い!
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 リヤガーニッシュが無いのはS40ならではの作りです。
 これも結構後でスーパー6用を付けたオーナーが多いです。この状態を保つのも中々難しいんですよ!
 本当に凄いな!
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 白いステアリングにヒビが無いのも凄いんですよ、ここまでよいS40D-1は先ずないですね。
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 誇らしいプリンスエンブレム。
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 メタリック塗装でこれだけ状態が良い物は先ずありません。凄いですね!多分私の師匠もこの個体ご存知かも。今度お聞きしてみよう。
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 ただ惜しい事は今回表彰にならなかった事、でもホイールキャップとミラーがオリジナルならば間違いなくあきたオールドカー大賞でしょうね。
 それと梶ノ目さん記憶が違っていないなら「タイムマシン賞」が表彰なかったと思いますが、これですか?

 私ならこの車を強く推しますよ!

モーターエージ RS41

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 暫くUPを忘れていたモーターエージですがこんな写真がありました。
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 耐水実験でしょうか。
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 RS41と40を並走させての実験ですね。意外とRS40の方が運転しやすいかも知れません。
 オーバードライブの扱いが当時のユーザーには理解出来なかった様ですし、CGの1962年10月号でも小林編集長にはオーバードライブの評価は良くはなかった。
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 元町工場で製造中のRS41。
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 続々完成RS41。
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 昭和37年10月時点でのRS41の採用カラー
 実はこれまでインペリアルマルーンメタリックはOPTと聞いてはいたがこの時点では設定すらなかったと思われます。
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 この時期のカタログのカラー表示
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 あれれ?フェンダーミラーが無い?実はこの時期ミラー取付の義務はなく、これでも問題はなかった。
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 こちらはドアミラー。でも当時はドアは・・・・

抜き打ちチェック!

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 クラウンが有る側の棚も本日抜き打ちチェックし、色の入り具合を調べました。
 昨年欲張り栽培をしたのが祟ってか着色不良が著しく殆どが廃棄処分となりました。
 もし今年も同じ結果ならば伐採計画があります。
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 運転席側。おっ!かなり着色が進んでいます。
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 フロントグリル側。未だ青いけど9月までには入るかな?
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 屋根側。一番下が良い色です。

 総合判定:やはり昨年は欲張り栽培が大きく影響を及ぼし、苦土石灰を多めに撒いて色が回復したかな?
 この樹は恐らく多くても80房で止めないと着色不良に陥るかも知れません。ジベ処理までは可能な限りやって生育が悪い物は「勿体ない」と云う精神を持たずにドンドン処分すれば良い作柄が期待できそうです。
 最低でも昨年は150房はこの樹に生らせた事は失敗の元ですね。来年は70~75で止めます。
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 人参。マダマダ芽生えません。
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 遂に酸で雑草退治!
 収穫忘れの枝豆にも酸が掛かりましたが、雑草より弱い作物とありまっ茶色です。
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 それにしても強い雑草です。枯れてはいますが未だ青味掛かっています。ここには冬場の野菜大根の種を蒔く予定です。



サプライズカー

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 これは私にとってです。凄いサプライズが発生しました!参加が厳しいと聞いていた主治医が参加です!
 オリジナルに戻してからでは初めて現車を見ます。

 見たいナァ~!と念じて居たら遂に実現しました。
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 ブログによりますと、昭和42年の後半頃かな?新車購入した車で、昭和54年頃までお父上が乗っていたそうです。主治医にとって最も欲しい車になり四半世紀と云う長い年月を掛けて思い出の車を作り上げたそうです。
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 初めにも書いていますが赤色の初期、中期は基本的に無く、それこそプロである彼が日本中探しても見つからなかったので(赤色の個体はソコソコあったそうです。でも後で塗り直しした物)もしご存知の方が居たら「赤の初期とか中期」でブログに出して頂きたくここから募集しましたが、やはり未だ返事なしです。
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 特徴はこの派手な赤い内装。有ってもかなり黒ずんでいたり、ボロボロだったりだったそうです。
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 ステアリングはクーペ用ですがこれは主治医の好み。ホイールキャップも同じくクーペ用ですがこちらはオリジナルがでに入らなくて・・・ではなく、オリジナルカバーを外した時指を怪我され以後オリジナルが嫌いになったそうです。

 然し・・・・ここで話は終わらない!それこそこの話を聞くと今回私が獲得した「ベストパートナー賞」か「レストア大賞」が主治医の手に渡る苦労をされています。

 手に入れた時は白の大分ボロボロだったフロアーシフト車で走行距離も軽く10万キロオーバーでした。それを可能な限りの新品部品でここまで仕上げましたが、

 大変だったのが写真のコラムシフト&ミッションです。フロアーからコラムに戻すのは想像以上厄介でシンプルなメカニズムがウリのサニーとは思えない難儀な作業だったそうです。これは3年程前に今の姿にしました。
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 ミラーバイザー。まさにこの年式にピッタリです。私の様な見栄張るクンではありません。
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 かなり初期からのETC。このガラスに貼るタイプが嫌いで、ポータブルの話を聞いてそれにするでしたが、犯罪行為との事で断念しました。
 結局将来の事、川口ICの事で止むなく妥協してこのタイプにしました。
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 車内も全て内装をバラして鉄板を赤色にしました。凄いでしょ!
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きちんと純正時計も作動します。ラジオが聞けるが絶対条件なので勿論バッチリ。
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 初めはかなり強い赤色と聞きましたが、時間が経つと落ち着いたくすんだ赤になると鈑金屋の話がありそのまま待ち続けると年々良い色になってきたとの事。

 でも本当に情熱のサニーですね。私自身サニー1000は初期の2ドアの赤とこれと同じ白の4ドアが思い出ある個体です。昭和53年頃農協自動車整備工場の廃車場にありました。

MS50前期型

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 3代目クラウンの場合私はDX以上のグレードは前期型が、商用車とオーナースペシャル以下は後期型が好きですがオーナーデラックス(一番の売り)は何故かどちらもう~ん!なのです。
 今回見たMS50も初めは「う~ん」かなぁ?とは思いましたが良く見るとデラックス。私が好きな前期型でした。
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 昭和43年式です。この車が新車の頃私の車は引退が近い時期でした。44年頃から余り走る機会が無くなります。
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 スーパーデラックスとオーナーデラックスの外見上の違いはこのフロントガラス。
 スーパーデラックスはボカシ入りの合わせガラスに対してデラックスはワゴンカスタムを入れてオーナースペシャルまで共通のゾーンライトガラス=部分合わせになります。STDは透明ガラスですよ。
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 デラックスである以上目が行くのが此処!
 オーバードライブ!

 オーナーさんに聞くと作動しないそうです。MS50系でも最終型まではこの方式を取り入れていますが、やはり作動する個体は少ないです。
 但しエンジンブレーキが効かない状態だとの話ですから恐らくは機構的には内部のギヤは問題ないとは思われますが、ゼネレーターかソレノイドが故障している可能性が高いです。意外と簡単なOHで治りそうな予感がしたのでオーナーさんには「恐らく治る状態でしょう。」と話ししました。

 私の車は初めエンジンブレーキはONの状態でも普通でした。
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 後で紹介しますが内装はかなり状態が良く、ここまで良い物はそうそうありません。
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 典型的なフロント側だけのドアバイザー。
 私の車も新車時はこうでした。リヤに付いたのは私の代になってからです。

クラウンMS50

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 この個体はトランククーラーが付く物で、それもバリバリの現役個体です。オーバードライブ並みに当時物クーラーは作動する物が少なく、多くがオブジェと化しているのが実情です。
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 とっても良く冷え私の車以上効果良く冷える話でした。
 運転席に座ると膝まで冷えるとか??凄い。
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 純正のファンシュラウドと5枚羽。
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 エンジンはOHC6気筒エンジンで私の車よりは馬力が有るのでロスは少ないでしょう。
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 この車の内装、とっても綺麗です。中々ここまで綺麗に残る事例は少ない。
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 鍍金も綺麗です。とても素性が良いですね!でも泣き所があり・・・・
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 ドアハンドル・・・・これはどの個体も泣き所で再鍍金を施すが、実際はアバタだらけでアルミテープで何とかここまでやったそうです。

 現状として、現在アンチモの再鍍金が出来る業者は○田ポリッシュさんとNバンパーだけ。
 Nバンパーは業者を通す必要があるそうで全く個人となると○田さんだけとなります。

 Sメッキは何度もトライ&エラーされたが上手くいかなかったそうで現在は引き受けしてないそうです。

 それだけ難しい鍍金ですから○田さんは大変貴重な存在である事がお判りと思います。多分ですが研磨師としても最年少である可能性もあり、(若い方であるのは確か)そう遠くない将来再鍍金が出来なくなる日ももうすぐそこまで来ているかも知れません。
 その事含め今しなければ再鍍金は手遅れになると書いてきました。
 
 尚このドアノブは「鍍金はしてやるが研磨はやれる範囲までだ」との事。それと研磨はしないでなら鍍金をしてやると云う業者は少ないけど存在します。
 綺麗なツルっとした鍍金はもう幻になりつつあります。

ラストチャンス!

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 人参の種を蒔くには今日がラストチャンスだと思いましたのでロクにならない中玉トマトを撤去してホウレンソウと大根の種を蒔きました。
 人参8月中にとの事ですし、8/30は雨天の予報なのでこの雨を逃したら大変なので思い切りました。
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 人参その1:平均台の付近に蒔きました。
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 ホウレンソウ:枝豆が最後まで残った所です。
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 本日撤去のトマトの跡地に人参を撒きます。
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 プリンスメロンも思い切り撤去して大根を蒔きました。
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 プリンスメロンは今胡瓜の脇にあります。
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 胡瓜もこの通りなので今月中には撤去し大根を蒔く予定です。

 畑の野菜も着実に秋冬に向かっています。

ウォーターポンプASSY落札 その1

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 25年探しても見付からなかったウォーターポンプASSYの新品ですが思わぬ価格で落札できました。
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 皆が欲しいトヨタの純正部品です。
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 目ざとい方ならここで「んん!!!・・・・・」
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 と云っても5R用でRS50用なのです。右が落札品、左が新車当時の使い古しです。
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 純正品はトヨタマークがサーモケースの所ですが
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 RS50用は水路側です。
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 一応カバーは取り付け可能でオリジナルと同じ位置です。



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