昨年は仕事の関係で休めず参拝できませんが、今年は休めたので、親父の実家にも行って来ました。
宿龍観音堂は基本お盆が解放されていますが、普段は閉鎖されています。但し本寺の近江寺(ちょうこうじ)に連絡すれば開錠してくれます。
元々ここは宿龍院と云うお寺で江戸時代初期頃(かややその前?)お婆ちゃんの実家で建てたと云われています。本日もカメラを構えており、「太田の子孫です」と云うと、「そう云えば太田の構えが此処を建てたんだよねぇ~。」と年配の檀家さんが話しました。
御本尊。
当家墓所でもある閻魔大王像。
脱衣婆像。明治時代初頭の廃仏毀釈運動で明治以前の物は余り残らないが多分当家の墓所でもあるので残ったと私は見ています。
元々次に紹介するかなり不利時代のお墓の前に閻魔堂がありました。その為看板がやや矛盾があります。
昭和58年11月は閻魔堂の屋根を改修しておりその時この看板を作りました。
これが先程書いた古い墓。
この裏は寒河江では大変有名なワンタン麺のふくやそば屋です。もし皆さんの周りで山形県寒河江市出身の方がいらっしゃれば「ふくやそば屋」と聞いて「知らない」となればこの方はほぼ間違いなく寒河江出身ではないと断言できる程有名なラーメン屋さんです。
行列が出来ますので時間つぶしにこちらに目をやれば見えますのでご覧になって下さい。
それこそいつの時代の先祖なのか判りませんが最も古くて私から数え26代前です。
来歴が書かれています。曾お爺ちゃんである太田源蔵(幼名は忠雄)が亡くなる10か月の昭和42年3月前に整備しました。
太田家は第91代後宇田天皇の娘を初代に私が31代目にあたり続きました。然し太田は名乗って居りませんし、直系はその前に終わり複雑な系統になりました。
寒河江で暮らしているのには理由があり、5代目辺りで失政があり左遷される憂いがあった為この地で生活して居ます。それと5代目以前の墓所は京都仁和寺で、現在は墓はなく、位牌が残されて居ります。宿龍院を建てる以前が別の場所に墓がありましたが、明治10年頃寒河江郡役所を作るにあたり墓を破壊され多くが紛失し、某店の主人が関わって居たので当家に詫びを入れ何とか判る墓を宿龍院に運び込んだのです。その旨が刻まれています。
中央が曾お爺ちゃん、お婆ちゃん、大叔父そして太田を名乗らないが源蔵の名前を引き継いだ家の墓。
右側のやや大きい墓が曾お爺ちゃんの両親と生涯独身を貫いた曾お爺ちゃんの弟の墓。この先祖は余り長生きではなかったそうですが親父よりは生きたそうです
先程の石碑にある「祖母語る」の祖母は恐らく写真右側2つ目と思われます。
丁度ドラえもんの世界ならばこの先祖は私が「セワシくん」に当たる子孫になります。