さて涙目テールRS41が置いてあった廃車場には他に10数台廃車が有り更にここを知った頃はもう少し台数が有った筈です。当時は工場と廃車場の間には道が出来て居らず繋がっていましたから、その分ありました。
今でもどこに何が有ったのか記憶がはっきりして居ますがこれから2度に渡り忘れ得ぬ車たちについても書いていく予定です。
今回は日本交通タクシーカラーのRS40です。
年式は間違いなく1964年式である事は確かです。日本交通の正式な記録によるとLPG車が導入されたのは昭和39年3月とありました。
以前改良書をUPした時LPG車に1963年式が存在する記述があり、再び迷う羽目になりましたがMS50系の新型車解説書のクラウン年表には昭和39年3月からRS40Pは発売とあります。
これは正式な記録ではありませんが、当時大手タクシー会社でもLPG補てん所が完全整備になって居なかったので万が一を恐れて半分位はガソリン車も用意していたそうです。
さて、この色のRS40丸テールが山形の地にあった訳ですが日本交通タクシーの山形支店が有ったのではありません。平成元年3月15日時点では謎でしたが、歯科医師になり謎が解けました。
又この個体は右前フェンダーが、マスターラインのウッドミスとグレーになって居り、モールの長さの記憶から涙目テール用と判明しましたが、それも謎がこの頃解けました。
フロントマスクは、後で紹介するコロナRT40Dがバンパーギリギリの位置にあったので見る事は出来ませんでしたがこのスタイルは見る事が出来ました。
それと先に書いた謎ですが、私が当時派遣されていた歯科医院の院長がライバル私立校の卒業生で、何かの話で患者である院長の恩師が「自動車運転講習会」の話をした時ピンときました。
当時就職希望の生徒を中心に3年生が卒業間近の時期に安価で運転免許を取得出来る様にと県庁に掛け合い払下げのダッヂを2台払い下げを受けました。途中一時的に途絶えましたがダッヂは使える状態ではなく、(恐らく故障が頻発して中断したらしいとの事)マトモな
セドリック2台とブルーバード1台(共に1960年式)を払い下げして貰い昭和40年に再開。然し42年にブルーバードが大破事故を起こして廃車となりその代替が日本交通タクシー上がりのRS40でした。
当時の事務長が東京から運転して運んだと云う事からまずガソリンと見て良い筈。
更にタクシー上がりなのでタイヤがボーズだった為再び県庁にお願いしてスノータイヤの使い古しを貰い全てスノータイヤでした。
内装は間違いなくこのタイプでした。
フェンダーがマスターライン用になって居るのは、昭和45年頃一時停止を怠った新型サニーがRS40の右前フェンダーにぶつかり、結構な衝撃であったが幸いけが人が出なかったものの、サニーは吹っ飛んで大破したけど、RS40はフェンダー等が破損で済んだそうで、学校近くの鈑金屋に63年式のマスターラインの廃車があり破損部品をそっくり交換して復帰したそうです。
因みにクラブ立ち上げ当時のメンバーに岩4ナンバーのライトバンオーナーが居て丁度右前フェンダーモールがビスで穴開けして固定して居たので、それが欲しいと話していたメンバーが居た事が忘れられません。
当然そのモールは状態は良かった。
LPG車のキャブレターはガソリン車とは違います。
ボンネットを開けましたがエアクリーナーケースとキャブは無かったが周りの作りはこんな感じではない筈です。だから普通のRS40だと思われます。
無論こんな装置も無かった。
やはりと云うか、当時運転した院長の恩師も「コラム噛みには悩まされたねぇ~」でした。唯エンジンはセドリックよりは故障が少なかったと話しており、60年式と64年式では耐久性が大きく向上したのだろうと思いました。
自動車運転講習会は昭和46年で場所の確保が難しくなった事で廃止になりこの時「県庁に依頼して3台全て処分して貰った。」と話しておりうち1台が何故平成元年3月15日まで残る様になったのかは謎だと話されていた事は今も忘れられません。
やはり記憶通りこのRS40は昭和46年に車検切れとなりそのステッカーも定期点検含めて46年で残って居たので間違いなく運転講習会で使われた車と判ります。
此処まで30年頑張れたのも皆一晩で姿を消した廃車の思い出があります。意地でも乗って見せるになりましたから。でも自分でも此処まで1963年式涙目テールRS41に拘り、こんなに頑固になるとは思ってもいませんでしたね。更に涙目テール、丸テール、角テールなる分類は私が発信したし・・・・
もし大伯母が蛮勇を振わなかったら多分この分類は無かったでしょうね。せいぜいショートノーズ、ロングノーズで終わるか此処までこの車も人気は無かった・・・・
今年103歳になる大伯母ですが市内には更に上もいまして身内である妹の姑の母親が106歳で健在で他に108歳もいる話が有ります。私は此処までの長寿は難しいけどお爺ちゃんの75歳を越して我が家の男2番目の長寿を目指したいですね(1番は曾お爺ちゃんの103歳ですがこれは無理でしょう)