本日は宮城県側坑門です。昨年途中の様子についてUP致しましたが、本日は入り口から坑門までの構造物を紹介いたします。
先ず、この頑強な鉄柵は昭和48年に旧建設省の手により施されました。理由は以前紹介した通り対立する暴走族のリンチ事件が発生した事ですが、それ以前も何かとこの旧道で悪さをする不届き者が居り閉鎖される事となりました。現在柵の奥に水たまりが出来て居り、其処に魚が住んで居るらしいです。
途中の路線は以前UPしましたのでそちらを参考にして頂きたく思います。今回は名の無きコンクリート橋を中心とした構造物をご紹介いたします。
先ずは坑門。とても一級国道とは思えません。
名の無きコンクリート橋。今まで近くから見ては居ませんでしたが、崩壊寸前と云った感じです。
以前はコンクリート欄干でも有ったのでしょうか?
橋脚もかなり傷んで居ます。恐らく戦前の作りでしょう。
関山旧道の愛好家。このメンバーは峰渡りの道の開拓をしていました。
一番後ろのオジサンの直ぐ隣に石碑が有りますが、此れは昭和41年8月8日にこの付近で若い男女が事故死してその翌年教職員一同が慰霊碑としてこの石碑を建立しました。
石碑は左端にありますが、崖の高さが想像できるでしょうか?この高さから2人が転落死しました。
関山隧道宮城県入口は現トンネルから300M離れて居ますが私の車が新車時代は山その物でした。38年10月より此処から工事が始まります。
*さて関山隧道と云うと幽霊の話が数多く残され、全国的にも有名ですが二つほど共通する話が有ります。
1つ目は明治13年7月に初代隧道を工事した際に犠牲になった母子の霊、もう一つは昭和39年9月22日に宮城県側で発生した一家全員事故死した話が尾ひれ葉ひれ付いて色々な話に発展しています。
山形県側で発生した母子の霊は昭和39年8月の事故ですが、これも宮城側の話が発展したのかも知れません。ただ事実としてその子供はお婆ちゃんが教師時代務めていた学校の児童でした。
尚今では女性が運転する事は珍しくは有りませんが、当時は非常に珍しく、実際お袋は昭和49年に運転免許取得するが当時ですら勤務先の市役所では女性ではお袋が10番以内に入る程女性職員は運転免許を所持していませんでした。お袋が取得して数年して少しずつ増えてきたと聞きます。
もしかすると山形側も珍しい女性取得者なので話しが発展したと思います。
それとお袋はぜ~んぜん車に関心はないですし、40年以上新車購入していますが、今は初めて妹(娘)の中古です。