何と云ってもこのキャデラックではないでしょうか?
当時高性能だったプリンスグロリアとてこのキャデラックには敵わなかった筈。後日のUPですが、機構はヨーロッパではありますが、スタイルはまさにかなり真似て居ます。
山形県でもこのキャデラックは縁があり、県知事公用車が此れで、恐らく同じ黒塗りで4ドアだった筈。その後が当時発売したばかりのセンチュリーになりました。(ベンツが県知事公用車とありますが、確認しようとした矢先オーナーが手放したので今の所調べられません)
でもあの当時貧困県だったのでとてもベンツ何て買えただろうか?
私もキャデラックは4ドアが好きですね。それとこの顔が好きです。
f
このテールが凄く良い。未だ古さを感じさせず、日本の工業製品にも大きな影響を与えて居ます。
リヤトレーに日本製のトランククーラーが付いた個体を見た事ありますが、それに点火時期調整が付いた個体が欲しいですね。無論東京五輪JAFバッチも似合いますね。
当時の日本ではこんな感じの軽3輪が多数走って居ました。それとて苦労してやっと買える代物で恐らく都市部に近い所ならばこのオート三輪もそんなキャデラックを横目に見ていた筈。
此処は関山隧道(昭和30年代撮影)当時の県知事公用車はどちらかと云うと栗子隧道よりもこちらを多く走り公用で越県した筈。無論先程のホープスターやミゼット等もその脇を走ったでしょう。
やっと見つけましたが私が40年前一番初めに好きになった自動車で、此処からが旧車馬鹿、別のブログで名乗る「羽前の国の旧車狂」と名乗る程になった原点の車。無論これが発展して我が家のクラウンが好きになりました。
こういう話をUPする時はいつもこの顔を思い浮かべ書いて居ます。そして隧道話ではキットこのトラックも走っただろうと・・・・。
実はこのテールですが、こんな物にまで影響を与えました。
キハ82型のライトです。モデルは59キャデラックでした。お爺ちゃんが現役バリバリだった当時のつばさです。然し定年となるまでお爺ちゃんはキハ81よりはマシだったが板谷峠でのオーバーヒートで苦労します。
最後に今回UP分写真に似合う曲と云う事で。
特に関山走行時口ずさみますし、以前頻繁に出したかつらざわ橋でのイメージの曲です。
因みに親父の分家S建設の社員さんと撮影の度お会いした砕石屋さんには先程UPしたトラックのタンクローリーが平成10年まで置いて居ました。多分タンクを使っていたのでしょう。
因みに今年UPした写真撮影時伯父に何も云われなかったので社員さんは気付かなかったかな?以前マトモに「あんな所で撮影するなよ!」でした。