我が家にお袋の従兄が事故死した報告が届いたのが14時頃らしく、やはりと云うかひいお婆ちゃんは茫然として、そのまま倒れこんだらしいです。
パイロットの弟2人は次男は既に県外の大きな会社に大卒の新人社員で入社しいませんでしたが、ひとまずはそちらにも電話したそうです。そして三男は山形大学の2年生でこの日はタマタマ休講で当家にいたそうです。お爺ちゃんが務めていた山形駅にも連絡が入り、大慌てでタクシーで帰宅し、ひいお婆ちゃんも落ち着き出したし、家族が皆揃った所で、私の車にはお爺ちゃんが運転して、ひいお爺ちゃんお婆ちゃん、そして三男が乗り、お婆ちゃん、お袋、叔母そして大叔父は大叔父が付き添いで山交バスで仙台に向かいひとまずは松島基地に向かったそうです。
冷静に行動できる様になったのが夕方なので、動き出したのが夕方で、松島ではホテルに一泊する事となったそうでした。
何度か出ていますが、ここは東根市悪戸の上と下の交差部分ですが絶対にここを走ったでしょう。今の様な舗装路ではなく、砂利道でした。
杉の葉がこんなに当時はないだろうけど、これが標準です。この細い道でお爺ちゃんはどういう思いでハンドルを握った事やら?
かつらざわ橋。もうすぐ関山隧道ですが、ひいお婆ちゃんはかなり取り乱したらしいです。本当に死んだのか?嘘であって欲しいと。
借り物で、宮城県側の路面。一番の関門である宮城県側を出て直ぐの「魔の直角カーブ」は過ぎて比較的安全な場所です。
宮城県側の先程の道から見た現道です。恐ろしく高い所にあるのです。こういう急こう配を走るのですから、相当エンジンに負担が掛かる訳です。
こんな所でオーバードライブをONにしたら、一気に崖下にダイブし一家全員死亡となります。それにトヨペットクラウンデラックスのオーバードライブはONのままだとたとえ時速50キロ未満であってもエンジンブレーキは効きません。キックダウンswを効かせればアクセルを踏むから余計マズイ状況に陥ります。
昭和41年の事故の慰霊碑ですが、ここも危険な関門です。
この橋。ここが曲者で、結構左に寄っています。山形から来た時ハンドルを切りそこなえば即転落。更にここに鈍重なトラックが居れば、頂上までローで登る羽目になります。こういう時セドリックの1963年式までのモデルがもってこいの車です。何分こちらのローギヤはトラックと同じ構造ですから馬力が違います。
旧道の遺構が今も残ります。手前が橋げたで、奥が当時の石垣です。この作りは戦前に多く見られましたので、間違いなく私のクラウンもここを走りました。
*難路関山を走りR45を目指し走るRS41です。