お爺ちゃんが運転免許を取得したのは、大分前からバイクの免許があり、(自動二輪でしょうかね?或いは軽免許?)昭和37年になり運転免許センターが新築されたし、普通運転免許が市内在住者優遇措置?が展開されて悪戯半分で取得したと云うのが実際の所らしいです。私のトヨペットクラウンデラックスの前はスーパーカブが有ったのは確かでこれは物心がついた時には我が家には無くなっていましたが、RS41購入後もどの位かの期間おいてあり、そちらに乗る事が多かったそうです。
タマタマ引き取ったこのクラウンですが、仙台方面は余り経験ない運転だったそうですから、大変な運転であったかも知れません。
この頃は同時取得の大叔父が良く運転したそうですが、お袋と叔母の付き添いが必要なので、バスで初めは追いかけました。(仙台駅から松島基地までが特に付き添いが必要、迷子になるから)但し帰りは大叔父がクラウンを運転してくれたそうです。
何はともあれ、松島まで走らせないとなりません。当時仙台地方は曇り、(宮古市は濃霧)関山も曇りだったでしょう。
現地の市議会議員が所有する山に墜落しましたが、幸い「放置して単に持っているだけの場所」との事で被害はなしとの事でした。
大変有り難い事にこの土地に慰霊碑を建ててくれるとなり、市役所(昭和33年以降)で職員が募金に協力してくれてその費用を市議会議員に渡したそうです。
う~う~。皆さん有難うございます。我が家もそれ相応の募金を出しました。
墜落炎上ですから大変な消火活動に機体回収作業であったと思います。幸い墜落した機体にお袋の従兄の遺体があったとの事でバラバラにならなかった事だけでも良かったと思います。
お爺ちゃんに聞いた話では、焼けていたとの事で包帯をかなり厚く巻いた状態で対面したそうで、顔等は全然判る物ではなかったそうです。
流石にひいお婆ちゃんには対面させなかったそうで、お袋や叔母とホテル待機していたそうです。(勿論ひいお爺ちゃんも)又当家のしきたりもあり、逆縁は親に対面させない方針ですので。
他、パイロットの妻、大叔父、兄弟が対面しました。
結構燃えました。
松島基地内部です。山形の風習に合わせてくれて、20日の午後には火葬しました。上司、同僚、部下との最期のお別れですね。(山形のしきたりは遺体を火葬してから葬儀が一般的で、仏がある状態では原則として葬儀はしない風習があります。これはすべての宗教や宗派問わず共通の風習です=骨葬です。なお今の時代葬儀屋に依頼した場合でも火葬後でないと、幾ら故人の希望としても、進行はしてくれません。)
基地の内部です。これは5/19とは全く関係がありません。時代は昭和39年の中であろうが、一般公開した時のショットであろうと思います。
飛行機は全然判らないですが、こんな写真もありました。なんだろ~?
流石松島基地です。外車がウヨウヨ。この中の外車も当家まで駆けつけております。
昭和39年当時クラウン走っただけでも顰蹙に近い時代でしたが、物凄い台数が来たので、急遽自宅裏の高校の校長に掛け合い校庭を借りて「高村家」駐車場にしました。お茶出しも近所の婆さん方を総動員でやり(無論皆明治生まれの婆さん)何とかさばいたそうです。
でも、それだけの外車やバスがあの細い道を隊列なしてやって来る姿を想像すると何とも云えない気分になります。