昭和41年8月1日にプリンス自動車工業と自動車販売の2社は正式に日産自動車に合併されました。
実は昭和40年5月には日産と合併覚書を交わしており、物凄い大騒ぎになりました。
そもそもこのプリンス自動車は「たま電気自動車」をルーツにする会社で昭和22年設立され当時から会長は大手タイヤ会社ブリヂストンの石橋氏が会長を務めました。日産に合併されるまで石橋氏はプリンス自動車の会長を務めます(社長は小川秀彦氏)
さてプリンス自動車がどんな車を発売し何年何月に等はここでは省略しますが合併の背景として私の中ではまず間違いないと思える1説がありこれをUP致します。
プリンス自動車の体質は中島飛行機時代に見られる性能重視主義で時代を先取りし過ぎて客のニーズに余り応えていない所があり、赤字体質でした。トヨタと同様工業と販売の2社体制で、トヨタと似た製品づくりを私は感じてはいますが、これも後に書きますが合併をトヨタは拒否しています。
そんな慢性的な赤字企業ですが、ある種社運を賭けた車がありました。ここは正しい説がはっきりしない所がありますが、私はこちらが正しいと思います。
「2代目プリンスグロリア(S40D)は石橋会長を驚かせる為に会長に極秘で作った!」
が正しいと思います。すると石橋会長は「こんな車は売れるはずない!」と云い、ガッカリしたそうです。発売はトヨタの2代目と同じ昭和37年10月2日ですからこれを石橋氏に見せたのが昭和37年の4月頃。もはや今からやり直しは出来ない時期です。そこであの絢爛豪華な鍍金や内装で誤魔化すのが精一杯でした。
こう書くと次からの合併話はスムーズになるのです。石橋氏はこの頃から自分が手掛けたプリンス自動車に対し情熱が徐々に無くなって来たのです。
折しも当時は昭和36年10月には二輪車とトラックは自動車の貿易自由化が始まり、40年10月には乗用車が貿易自由化が始まろうとしていました。
当時の旧通産省は自動車メーカーの再編を考えており、当時の通産大臣桜内氏より石橋会長は「プリンス自動車は手放す様に。」と忠告を受けます。
これはある種桜内氏も命がけで石橋会長に忠告したのです。又同時に石橋氏はプリンス自動車には会長すら知らない最低50億から100億円と云う当時の国家予算に匹敵する赤字を桜内氏に知らされ大いに驚いたそうです。S40グロリアの失敗と大赤字更には国家要請もあり徐々にプリンス自動車に距離を置きました。
現場社員の回顧録では「日産に合併されるまでは赤字企業であったとは思わなかった。何故合併に至ったのか判らない。」と答える者、「S40の在庫の山がアッ!と云う間に出来てしまい、もうダメだろう。」と答える者と別れていました。
つまり前者は工業の社員後者は販売の社員と判りました。=工業の経営方法は売れる売れない関係なくまずは販売に買い取って貰う。と云う経営方法で売れない物をドンドン作るから赤字が作れば作る程膨らんで行くのです。
更にプリンスは変な事業に手を出しました。宇宙開発で、糸川博士が率いるペンシルロケットに手を出しました。これがより赤字に拍車を掛けました。これは日産も合併により引き受け後に大いに苦しむ事となります。
もはや自立再建は出来ないプリンス自動車ですが、当時上場企業ではなく未公開企業ですから内部体質は判りません。プリンス自動車工業だけ見れば黒字で販売の事は隠してありました。
当然乍、通産省はトヨタに合併打診を行いますが、前回書いた通り中川社長の軍団員によりプリンスの中身は洗われており、中川社長は即答で「ノー!」マツダに打診したが「マツダより大きい会社であるなら応じるが小さい会社には応じない」の姿勢でした。
うまい具合にこの話に食いついたのが日産でした。川又社長はこの時「日産の技術力をもってトヨタの規模を抜こう!」でした。又日産は高級車を作るメーカーとして川又氏は認識しており、乗用車のノウハウを日産に取り入れればトヨタを抜けると考えたみたいです。
この時点で愛知機械工業を傘下に収めて経営に成功しており、プリンスを合併して規模拡大を考えたので、質より量を川又氏は選んだのです。
結果はもうお判りでしょう。ですから今回三菱を傘下に入れた事で川又氏が経験した大火傷を負うのではとふと思ったのです。何れにせよ三菱の倒産はこれにより回避されました。
これが問題の2代目グロリア。当初はデラックスのみの販売で先代のBLSIと同じ販売方法でした。
私は2代目クラウンと比べて甲乙付け難い程好きな車ですが、公用車需要、タクシー需要には向かない作りでした。G7エンジン搭載のスーパー6は昭和38年6月20日が発売で、同年9月以降のデラックスはレギュラーガソリン仕様にしてモールや内装を簡素化し、従来の1型の作りはスーパー6に引き継がれました。
実は昭和38年5月の第一回日本GPの時ブリヂストンはトヨタにレース用タイヤは供給しなかったが第二回の時はトヨタに供給しております。恐らくもう完全にプリンスを見切ったと考えられます。この時当時のプリンスレーシングの関係者は大いに驚きましたが、石橋氏の力ではもうどうにも出来ないと見込んだと考えています。