昭和41年5月29日待望の栗子ハイウェイが開通しました。それ以前は明治14年開通の栗子峠で自動車走行対応を昭和11年までには完成させたとは云う物の、とても自動車を走らせるには無謀な道で、これから始まるであろうモータリゼーションには対応できない酷道でした。平均速度17キロ、都内走行の平均速度より1キロ遅い速度しか出せない悲惨な道。
その上当時は11月から翌年の5月まで冬季閉鎖がされ、6か月間も福島市に行き来できない、不便な道ですから当時ですら不便極まりない道だったのです。それが通年通行可能(但し余り酷いと通行止めは今もあり)になったので山形県にとっては待ちに待った道であり、当時は栗子ハイウェイと呼ばれました。
こちらは栗子トンネルの東トンネル。福島市二ツ小屋地区です。そうです!ここが私の故郷であり、この写真撮影した側には二ツ小屋隧道があり、その奥こそが我が故郷大平集落。40件ほどの米澤藩士がこの地に移住し当家は明治14年の最初の移住者です。この地で10年ほど生活して現在の長井市に移住し、商売をするが失敗して一家離散となりました。移住せず残った家族も昭和7年6月までには皆福島市大瀧に移住し、昭和54年までこの地で過ごし、いまはあちこちに散らばりました
題名は40年前の米沢ですが、撮影は昭和42年です。当時開通したばかりの栗子ハイウェイが出来てから米沢の交通事情は激変しました。
恐ろしい数の車が市内を闊歩します。初めの映像をよく見るとRS41の丸テールがあり、ナンバーは
山形5 す 69-35ですが恐らく昭和39年4月か5月に登録された車だと思います。つまりこの時点で5ナンバー枠は6935台山形県内に昭和30年6月以降戦前型入れてあったとなります。
それがわずか3年以内でこれだけ増えたのです。
このクソボログ!文字が大きくなんねぇ~よ!これはその2です。
現在の栗子旧道の様子。これが比較的最近ですが、今は立ち入れない様に柵が施されました。
栗子旧道、ハイウェイを走り次は新しい9000米のトンネルを走ろうとしています。開通は来年、楽しみであります。
恐らくですが公用車の代理を務めていた当時昭和41年の明日以降この道を経由で東京などに行って居たと思います。