今年映画化された「いしゃ先生 志田周子」ですが、実際大井沢診療所が出来る前、或いは外科治療が必要となった場合大江町左沢(あてらざわ)へ行かねばならず、どの位大変な物かクラウンRS41に乗って調査しました。
以前のプチ観光にもこの件は出していますが、戦前期は陸の孤島と云われ恐らくこれから紹介する峠から今の大江町柳川等を経由しないと村外に出られない悲惨な所でした。
当然医療機関は無く、我慢に我慢をして医療機関に向かう時にはもう手遅れと云う事例は実に多く、それを解消する為に周子は父親の命により医師になりました。
大井沢診療所は昭和10年頃完成し36年末までありました。37年7月に周子は没するとその後は再び無医村になり今に至ります。但し戦後はR112につながる道が出来、徐々に自家用車も普及し西川町や寒河江市等に受診する事になりました。
YOUTUBEより。因みに志田家はお婆ちゃん(親父の実母)の分家で大井沢の中村に多い苗字です。
今志田周子と親父の遺骨の一部は同じ土に埋まっております。早く亡くなり婿入りしたので、親元に一緒に埋めたいとなりこうなりました。
志田は51歳(享年53歳)親父は43歳(享年45歳)で亡くなりました。
恐らく今向こうの世界で色々私の悪口やら何やら話しているかな?「僕はバカ息子1人と娘1人出来たよ」とそれか「バカ息子を遺したけど心配だとか」
映画化以降整備されましたが、それ以前は本当に医療機関なのか?と思いました。
それでは大井沢診療所から大江町に行く峠までメーターを参考に距離を測りましょう。
ここは大井沢の奥側で見附(みつけ)根子(ねこ)付近です。親父の実家がある萱野(かやの)から大分進んでいます。恐らくですが峠は県道27号線をまっすぐ行った所だと推測しております。
ドンドン山奥に行きます。8/13なので親父を迎えに行き、親父と一緒にドライブします。
「親父、俺は運転が上手いからな!任せておきな!」
このガードが有る=冬季閉鎖になるのでしょうね。今の時代は閉鎖しても問題ありませんが、戦前期は閉鎖は出来ませんので、恐らく病人をソリに乗せて引く時、命がけで峠を越したと思います。
今では大変立派なトンネルがありますが、当時は険しい山道でした。こんな立派なトンネルあっても冬場は閉鎖されます。ここまで診療所からの距離は7.5キロ。更にここから柳川等を経由して左沢なので恐らくは20キロは歩く事となると思われます。
やはり大井沢診療所が無いと村民は病気に掛かると死ぬしかないと思われます。
志田周子は現在の東京女子医大に入学しますが、(高等学校は現在の山形西高等学校)山形に行くにせよ、東京に行くにせよ、村を出るには皆この峠を越さないと行けません。左沢からは国鉄左沢線に乗り、山形に出て奥羽本線経由で東京などに行きましたが、山形に行くだけでも今の感覚なら東京へ行く以上大変な物ですので、東京は外国かそれ以上遠い所へ行く以上の大変さがあったでしょう。
因みに伯母(親父の姉)はこの峠を過ぎて程なくした所のM家の本家に昭和21年嫁ぎました。その伯母も5年前87歳で亡くなりました。
余りに立派過ぎるトンネル。
30年前に完成しました。