今年の夏頃書いたプリンス自動車の件に関して他に書いた日産ディズの記事に大きな誤りがあるので、削除して新たに書き直しします。
先ず書き直しとなった日産ディズの件、鉄ホイールはワゴンRと共通と書いていましたが、残念ながら全く合いません。
今の所何用が合うかは判りませんが専用品を新品で購入しました。今の鉄ホイールも専用品が多く非常に困ってしまいます。
当然間違い情報ですから関連した投稿は2つ消さねばならず今回は書き直ししました。
さて本題へ。
まずはプリンス自動車とはどういうメーカーなのか?はウィッキを見て頂ければ判ると思いますので。
へバトンタッチします。
今年の8月1日で合併から50年となりますが、私はまず間違いなくこれから書く説が正しく、合併になって然るべき理由だと強く思って居ます。
プリンス自動車の経営悪化に貢献した車は昭和37年
10月2日発売のグロリアデラックスS40D-1型です。この車の開発が原因だと見ると自然です。
これが問題のS40D-1型。初代から踏襲された、フルシンクロミッションにド・ディオンアクスルのリやサスペンションエンジンも基本同じ構造のG2エンジンです。(4気筒OHVエンジン)
グロリアの誕生背景として、いずれは高級乗用車を作りたい悲願があり、一先ずスカイラインのボデーを共有し豪華な内装に3ナンバーエンジンにして、デラックスグレードのみの販売でやる方針でしたので、2代目も同じように販売しました。
プリンスの最高級乗用車グロリア。スカイラインからの独立を企画し、会社の会長でブリヂストンの石橋会長には相談せず、会長を驚かせる凄い車を企画しました。
このメーカーの欠点は売れる車の作り方を知らない事。自動車工業の連中が良い物が売れると勘違いをしていたのです。
2代目の企画に当たり設計課長のT.H氏(大正5年生まれ)はアメリカに渡りシボレーコルベアを見て電気が走る様な衝撃を受けてこれをモデルにする事がすぐ決まりました。一説にはほぼ「パクリ」に近いレベルの真似ぶりだったと云う話もあります。
2代目グロリアは昭和37年10月にトヨタのクラウンと一緒に発売は変えられません。時期はバラ付きますが、昭和37年4月或いは36年10月になり石橋会長に新型グロリアについて報告をしました。
当時関係者は会長が驚く顔、「良くやった!」と云う顔ばかりを想像していました。
が・・・・・・・・石橋会長が放った言葉は
「こんな車は売れない!」・・・・・恐らくその場はものすご~く静かになったでしょう。
ガッカリした顔でその場を去ったそうです。が、やはり自分が出資した会社ですし、開発費も膨大ですので、そのまま見捨てる訳には行きませんので、今からコルベアラインを白紙には出来ない時期ですから、苦肉の策としてあの絢爛豪華な鍍金仕様に仕立てるのが精一杯となりました。
現実問題として、発売に踏み切ったS40D-1ですが石橋会長の云う通り殆ど売れませんでした。ドンドン生産するが売れないので、自動車販売にはあっと云う間に不良在庫の山が出来、当時工業側は「これだけ良い物を作ったのだから売れないのは販売の責任だ!」とでも云って無理やり押し付けるから分社化していた工業は黒字ではあるが、販売は火の車でした。
更に夏場には別の問題が発生し、長期在庫と化したS40のシートにシミが出来るトラブルが発生し炎天下に放置すると熱で糊が変質する事が判りました。
私は個人的にはこのデザインは凄く好きですが、この車を買えるユーザー層には全然ダメだったわけです。
更にこの時期は自動車工業会にとっては重大な時期で40年10月には乗用車の輸入自由化が決まり、業界再編の時期で、特にプリンス自動車は経営体力が弱く危険な会社でした。
当然政府関係者はこの事は知っており、当時石橋会長と親交が有った桜内通産大臣が、多忙で絶対極秘であったプリンス自動車の内部事情をある意味命がけで報告しました。
ロクに売れないメーカーであったが、宇宙開発にも手を染めており、累積赤字金額が当時の国家予算かそれ以上の金額である事を知らせると、青ざめたのは当然だが、プリンス自動車は手放す決心をしたのはこのグロリアの失敗である事は間違いありません。
こちらは1960年式のグロリア。GB40型エンジン搭載でこれは1961年以降GB4型にマイナーチェンジされ、税制変更で5ナンバーになり1963年式からG2型へと変更になりました。
密かに師匠が1960年式をお持ちでそれも東芝のクーラーが付いており欲しいナァと思いました。未再生でペイントは剥げてはいますがそれもまた味があり欲しいですが・・・・うさちゃんがねぇ~。
買ったら「うさキック!」でしょう。
このサイドスタイルも美しいですね。RS41以上の注目を浴びるでしょうね。
実は私、密かにプリンスとトヨタは似た所があると思って居ました。昭和40年までは工業側が強かったのですよ。カローラ発売以降販売側が強くなりました。
実はプリンス合併に当たりトヨタにも合併の話は一番早く来ましたが、当時の社長中川不器男氏は直ぐに断りました。
中川氏は昭和36年トヨタ自動車に三井銀行から派遣されていました。(当時62歳)自動車の貿易自由化に備えて経営に明るい銀行の役員を退職した者を再雇用して然るべき日に備えて居ました。そこで敏腕の中川氏が36年10月から社長に就任したのです。
プリンスが身売りされて居ると知るや、中川部隊を編成しプリンス自動車工業、販売の中身を洗い出します。するとこの時点で物凄い赤字が有ると判明し、合併はしない方が得策と判断され即座にノーでした。
マツダは「マツダより規模が大きい会社なら合併に応じる。」でしたが弱小メーカーではダメとなり直ぐにご破算。そこでプリンスにガップリ喰い付いたのが日産ででした。
当時の社長川又克二氏は日本興業銀行出身で昭和22年、42歳で出向ですが、中川部隊の様な部下たちは居なく本人はこれまで興業銀行出身の後輩の会社でコニーやジャイアントのメーカー愛知機構を救済し、プリンスの小川社長とは銀行は違うが(小川氏は住友銀行)救済する自信はあるし、何よりずば抜けた技術力を高く評価しトヨタを追い抜けると信じて居ました。
当然の話ですがトヨタはこの時日産を「ほくそ笑んだ」と思います。何分プリンスは未公開会社ですから状況は判りません。
合併をするにあたり、内情を知るや川又氏の顔がムンクの「叫び」になった事は想像できるでしょう。