がネット上に出ました。これを探していました。
私がこの状態を見たのが1990年(平成2年)の夏。
列車通学だったので何となく羽前千歳~北山形駅間にある事は知っていましたので、そのうち自転車で通学して見に行こうと考えました。
以前も書いていますが香澄町のプラモデル屋へ行って、七日町のダットサン123トラックを見て、本町の八文字屋で旧車雑誌を見て、千歳のこのヤードを見る。その後は旧R13を自転車で走るので道路沿いの廃車を見てと、まぁ~ロクでもない高校生でした。
もし柔道部に入部しないならば、ヤバかったかも知れません(笑)超オタッキーだったでしょう。
タマタマライバルの私立高校の柔道部のスポンサーが今から紹介する解体屋だったので、同期生の友人の紹介で内部侵入もしましたので、撮影者の方以上詳しいと自負しております。
この写真は私の記憶だと高校卒業し、県外に行った時期であると断言できます。(93年とありましたし、最後に見たのが91年ですからその間に一部解体処分したのでしょう)でもそれでも気になる車両は残って居ました。
撮影した方によると、バスの右から4番目が87年(昭和62年)の鉄道ジャーナルに山形ー宮宿間の特急バスとして現役中の写真があったとありました。(宮宿は西村山郡朝日町の宮宿)恐らく所属は西川営業所かな?カミさんの実家近くの営業所です。
私が気になるのはその隣り5番目です。この中では一番古い昭和45年式で車番は「7057」昭和45年式で多分57台目の納車でしょう。営業所は私の地元で、家の裏のお爺ちゃんが当時運転していたバスです。
お爺ちゃんの話では余り性能が良くなく、何とか使いこなして裏のお爺ちゃんが引退するかしたばかりまでのりこなしその後パーツカーになったみたいな話でした。
因みにお爺ちゃんは体力面からバスを引退し山交グループ内のハイヤー会社に再就職しハイタクドライバーを65歳まで勤めました。
これは表側。私が見た平成2年はフレームだ、乗用車だが無数にあり、70年代の車が山積みで興奮しまくりました。紹介した友人は呆れて物が云えない状態です。
こちらの写真だと右から又も5番目で奥まっていますので見えにくいですがガラスが全て割れて居ます。
当時は4段積みですから危ない感じはしました。
参考。「7」の看板があるトヨタのバスが気になるバスの在りし日の姿。実はトヨタバスはトラブルが多かったそうですよ。
撮影した方によるとこれまで紹介が93年とあるのでそれより少し古い筈です。先程の写真の状態になる前がこういう状態だった筈です。
写真中央の屋根が潰れたバスは比較的当時の短命バスでピラーが細くなり、上のバスの重量に耐えきれず潰れて居ます。
恐らく10年は使わずに廃車になったかな?タイヤが残っていそうなので、特徴から、観光バス引退し路線で酷使され短命になった個体でしょう。西川か新庄営業所でしょう。山形まで毎日走り損耗したでしょうね。
一番初めの写真に戻り右端のバスも私の地元のトヨタバスです。このバスのドナーに7057号はなったかな?
地元の路線は余りきつくなく山形の山交ビル、村山市の楯岡、河北町の谷地が担当でこういう路線にトヨタを集中投入したそうです。
こちらの写真では目をよ~く凝らせば「東北第一物流」と書かれたトラック荷台の後ろに3つランプがある筈で、それが初めに出した写真右端のトヨタバスです。
車番は忘れましたが73とあったので間違いなく昭和48年式でタイヤ、エンジン全て残って居ました。
これも裏のお爺ちゃんは運転しています。
山形交通がトヨタバスを採用する背景には○部天皇のグループ企業に「トヨタディーゼル販売」があり採用しないわけには行かなかったそうです。
やはり裏のお爺ちゃんもディーゼル店で扱うパブリカを昭和37年に購入し、その後は亡くなるまでずっとカローラでその息子さんもカローラをずっと愛用しています。「大型車はダメでもカローラは良い。」と云いました。
この廃車の山を見ると思いだす曲がコレ!この写真見てこの曲を聞きたかった。
以前紹介した写真がこれですが、在り処は先程の写真の間に2台ほど60年代初頭のバスがあり、その上に乗用車が何段も積み重ねたヤードがあり、とても危険で当時は近付けませんでした。
そのすぐ東隣がこちらの写真で、実は写真右側に数件民家がありそのうちに1軒が後輩の友人宅で、その後輩の案内でお宅にお邪魔し、窓からみると東日本大震災規模の地震がきたら、絶対危ない感じでした。
塀はしてありますが何となく怖いです。
これはバスを外壁に再利用したところ。年式は64なので昭和39年式。車番から多分年式打刻制度時代の個体。
あとでまた