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Channel: 高村円淨のブログ
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黒塗り車の末路 その2

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 以前も紹介しましたが、又面白い写真を発見しました。まさに黒塗り車の末路にふさわしい写真です。
 撮影は昭和45年と思われます。RS41、VG31共に1964年式です。後ろのP410も恐らく1964年式でしょうね。

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 何度か写真を拡大して年式を推測しました。
 バンパーのナンバーステーがどうも1963年式に見られない形ですし、グリルのアンダーモールの特徴が1964年式が自然に思えますので、1964年式としました。

 恐らくドアバイザーもしっかり4枚有るので、官公庁ないし法人オーナーの車でしょうね。無論6年、それも黒ともなれば誰も見向きもしないし、買い手が付きません。
 
 おのずと解体かスタントカーショー用となります。当然ドラマの斬られ役とかも。

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 当然此の車だって同じ。我が家で手放そうとしたのは昭和47年(1972年)ですので、もはやスクラップ以外道は有りませんでした。
 ウリのトランククーラーも9年ともなれば価値は有りませんでしたね。
 部品取りとなる可能性はほぼゼロ!奥○自動車解体店に山形トヨタないしカローラ山形の営業所から直通でしょう。


新型車解説書 昭和39年8月 その2

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 昭和39年後期モデルの特色で忘れてはならない特徴をUP致します。此れは案外知られて居ません。 
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 スタンダードで大きく違う事としてフロントガラス。このモデルからRS20以来続いた合わせガラスがこのモデルからコストダウン化が図られ、部分合わせガラスへ(ゾーンライトガラス)合わせガラスはオプションとなります。
 尚デラックスは合わせガラスです。
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 デラックスはオーバードライブのリレーが大きく変わります。時速110キロ以上となるとキックダウンが利かなくなるシステムが付きます。(110キロ以上で走った時、キックダウンすると、ミッションに負担が掛かる為)又キックダウンSWもこのモデルから形状が変わります。
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 リレーの回路図、尚このリレーは次のMS50系でもこのまま引き継がれます。
 40系クラウンでオーバードライブシステムが作動する個体は余り無く、MS50系でも作動する個体は余り無い筈です。
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 新型と旧型の作動比較。正直な話、今の時代110キロ以上出る個体は少ない感じがしますので、別段110キロでキックダウンが利かない構造は余り意味が無いと思います。私の車は120キロは出ますが、何も自然に90キロ辺りまで落として、キックダウンをそこで利かせて加速すれば十分だと思います。

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 新型リレー拡大。

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 昭和39年の秋に発行されました。

オーバードライブリレー

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 前回は昭和39年後期型の新型車解説書を紹介しましたが、大きく旧型と変わったリレーについて改造すれば旧型に使えるのでご紹介いたします。
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 3年ほど前だったと思いますが、オーバードライブが不安定で考えられる関係部品に全て虱潰しの如く手を入れて、その時武左ゑ門さんから加工して頂いたリレーAssyです。

 要は写真右は使わない。左を旧型のハーネスにしてしまうのです。恐らく右が後期型から出た110キロ以上からキックダウンが出来なくなる装備のハーネスでしょう。

 このAssyは問題ない事は確認していますが、加工の少し前旧型リレーのトランジスターの殆どを交換する修理をしてそれでも結果が出ない事があったので、一時この写真のリレーを使いました。
  それと、タマタマなのか、今使って居る旧型リレーがON,OFF時「カチン!」と音がして入って居る事が確認できますから此れが便利なので、ついつい使い続けて居ます。このリレーや武左ゑ門さんのリレーはそんな音がしないので、改造されて居るのでしょう。

 *最終的な原因はソレノイドSWへのオイル侵入、そしてデスビーフルトラ間の無結線が主な原因でした。

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 写真の88140-30022が後期型、88140-30020が私の車に取り付けられたAssyです。
 このリレーは昭和40年2月製造の個体(手に入れた部品取り)から外しました。他にも関連電装品はかなりこの個体から外してスペアパーツにしました。

 因みに私の車の元々の部品は全て駄目、駄目に近かったです。
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 新型車解説書より、此れが旧型で自分の車の物です
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 新型の内部はこうなって居ます。
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 因みに写真の個体と同じ色の廃車から私が今使って居るリレーAssyを移植しました。
 当時この色は都内では商売に成功したホステスが乗って居たとか。私の車に付くリレーもそんなホステスが乗って居た個体だそうです。
 実はこの方昭和46年頃に若くして亡くなり,愛車のRS41を解体末梢で廃車し、生じた部品は中古部品で卸す為に丁寧な解体が求められ、出先がハッキリしているそうです。ナンバーは品5が付いて居り、それも何故か保管されて居ました。
  多分この方オーバードライブを良く使ったかな?だから音で判別できる様にしたのかな?

 恐らくオーバードライブは故障、トラブルが多く需要が有り、こんな細かい部品を外したのでしょう。


コロナwピックとコロナマークⅡ

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 原型を留めない車がコロナPT46Pです。20年以上前に撮影した形がある頃の写真を探しましたが発見できませんでした。
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 フロントグリルの破片とライトの台座の破片を良く見ると昭和41年6月以降のモデルと判ります。

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 平成18年豪雪で潰れてその後パネルで持ち運べる部分を鉄屑屋に運んで貰い残りはそのままとなりました。
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 コロナマークⅡです。ここ数年で左のテールが無くなりました。
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 テールの形状から前期型と判ります。
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 昭和54年の定期点検ステッカーのみ残って居ました。
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 前から顔を見る事は出来ませんでした。


バンパー焦がしちゃった!

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 今年に入ってたある時期に何処からか焦げ臭い臭いがすると思ったらバンパーが・・・・焦げて居ました。
 原因はマフラークランプが折れた事、然しVNY30とてこの部品中々入らずバックオーダーでようやっと入ったとの事で11日(土)定期点検兼ねて修理となりました。
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 ありゃりゃ!やっちゃった・・・・。主治医も「こういういい加減な修理するから厄介な事になるんだ!」でした。
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 こんな感じで。

 他にエアコンバキュームホース破損、右リヤドアロック故障、プラグ交換かな?

旧R48を走る

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 此れまではオーバードライブのボタンを引いて走りましたが、今回そのままではどうか?と思いONのまま走りました。
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 当時は砂利道なので条件は今の方が良いですが。
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 旧R13より狭いですねぇ~。
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 オーバードライブがONになる、50㌔以上での速度は今の時代でも厳しい感じです。40㌔が良い所でした。

 やはり年配の運転手だった方がおっしゃいますが、オーバードライブは常時OFFにしないと思う様に走らせられなかったは改めて納得です。

 この機構にはオーバードライブONにして作動しない状態だとフリーホイールの作動で云々と取扱い説明書にありますが、やはりOFFにしないと当時はより危険かな?と思いました。

 田舎では国道ですら40㌔を出すのがやっとの道なのでオーバードライブは時期尚早も良い所でした。


グロリアライトバン整備へ

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 伸びに伸びていたVNY30の整備を行いました。兎に角マフラークランプの入手に手間取ったそうです。
 本日は主治医のもう一台の愛車を紹介しちゃいます。
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 この車は東京都内に有った車で高齢ドライバーのワンオーナー車でした。運転が出来なくなって処分して欲しいとなり流れた車を購入したそうです。
 又主治医のブログによると先月念願のエアコンを装備!当時の高級タイプだと有りました(安い方は取り付けに制限が有るらしい)
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 エンブレムは未だこんなに綺麗で、此れだけ状態が良い物はそうそう有りません。
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 リヤシートには新車時ビニールが!たま~にこういう旧車見ますが、私には真似できませんね。
 同じ市内に新車時ビニールを守るとばかりにシートカバーとクッションと云う凄い装備をしたGS121クラウンを見ました。何だか疲れそう。
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 次から今回の主役。今セドリックオーナーさんの間で話題沸騰のステッカー。
 そもそも主治医が私にステッカーの世界を案内した方だけあり拘って居ますねぇ~。
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 そして主役!OKステッカー。
 親から貰ったサニーB310も同じ物が有りました。B410と同様リヤ左ドアに貼られます。このステッカーは私剥がしませんでしたので、平成20年にスクラップに出すまで何とか残りました。
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 昭和54年の今日忌まわしい日本坂トンネル火災事故が有った日です。危うく本日が私の37回忌でした。
 東京のスポンサー宅にいた時誰だったかと静岡に行きその帰り被災しました。

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 今も記憶が生々しく呼吸が苦しく物凄い熱波、中はまさに阿鼻叫喚地獄でした。
 この事故は未だ自動車事故最悪だそうですが、記憶の風化が進み知る人も少なくなりました。当時子供だった私も、もう初老に入り年寄の忠告としてまた忘れた頃こういう大きな事故が起きるとします。
 人間が作った物に完璧は無い、何時何処でこういう大きな欠点が発生して大惨事に巻き込まれるかは判りません。普段の点検、訓練は怠りが無い様に、そして教訓を忘れない様に。


山形市の繁華街を走る

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 以前トヨペットクラウンデラックスを運転すると周りの風景が唯一1960年代初頭の山形が見えそうな感じがすると書いた記事がありましたが、今回交通量が少ない時間帯を狙って撮影しUP致しました。
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 山形市本町、七日町です。此処はR112で真っ直ぐ北進すると旧山形県庁(現在の文翔館=ぶんしょうかん)にぶつかりますので、此処が山形の県庁所在地でした。R112は親父の実家前を通り酒田市まで続きます。
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 本町、七日町通りをトヨペットクラウンデラックスではしると、こんな車や

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 こんな車が走っているシーンが出てきます。
 キャデラックは流石に一般人は山形では後で紹介する○部天皇位でしょ~ねぇ~
 多くがスバル360とかキャロル、ミゼットでたま~にコロナやブルーバードが走って居り、その中にチラリ出てきます。

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 「流石山形だんべ、外車が走って居だっけずぅ~」
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 お向かいの市長ならば
 「おらほの市もそのうち都市計画をきっつとするべがら、今少す待ってケロ」
 と煙草でも吸って大叔父に話して居たかな?
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 山形の華大沼デパート前にて。建物は昭和31年に竣工されましたが、古びていても凛とした気品ある風格が感じます。
 この当時だと平気で此処で駐停車出来ました。
 「ほれ、○○子。(お袋の名前)此処で降りて買って来い」とでもお爺ちゃんが云っていたかな?

 無論クーラーなんて気が利いた物はデパートにも無かった時代お袋は「暑い、暑い早く車に戻りたい」とこの時は思ったかな?
 

R112の始点

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 久々のプチ観光です。
 R112の最大の目的は村山地区と海沿いの庄内地区を結び付ける事で、メインは六十厘越と呼ばれた親父の故郷付近です。昭和28年よりR112となりました。

 戦後の歴史としてこのR112を利用しA級戦犯の石原莞爾の監視の為GHQがしばしジープを走らせ、当時は大井沢へ行く路線バスがあり、それを利用して東京から米の買い出しに沢山の人々が利用しています。
 
 以前も書いて居ますが、R112を走るバスに乗って不二家の社長が米の買い出しに行った時6歳児が「ベゴ、ベゴ!」と牛を指して叫んでおり、それが「ペコちゃん」となったのはあまりに有名な話ですが、

 その子供が・・・・「お。や。じ?」、ピンク怪獣の「お爺ちゃん?」
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 此処が本町の始まり。
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 此処は今は小児科、皮膚科ですが戦前期は眼科でしたが、建物が素敵です。空襲被害が無かった故こういう貴重な建物が残りました。
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 本町の高級ホテルです。昭和46年より操業。
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 オーナーはこの方。山形の天皇です。
 この方に逆らったら命の保証はマジでありません。
 実はこのR112の開発が出来ない様に電線を地中に埋めたのはこの方の指示。

 何分県知事、山形市長、山形輩出の国会議員が天皇の子分状態ですから逆らえばヤバイですよ。因みに私のお義母さんの父親も市議会議長でしたが、天皇の子分でした。(ピンク怪獣のひいお爺ちゃんですね)

 写真では今年は何時もより早い時期に提灯が下がって居ますが、山形花笠まつりの為でしょう。実は北○○子さんと云う大物演歌歌手が大ファンでして、何時もゲストでお呼びしており、天皇が経営なされて居る看板アナウンサー○池さんが「○部○子さん!」とアナウンスして翌日までには山形から遠く離れた辺鄙な結婚式場へ転勤させそこの司会となりました。

 社内では天皇の愛人と囁かれる程でしたので裏では社員の殆どはこういう呼び方で、つい口が滑ったのでしょう。でも命あって良かったネ、○池さん。

 それと私は天皇と対談をテレビ放映付きでした事が有ります。本当に緊張感が有る方でした。無論立派なブレザーを着て対談しました。

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 ホテルの手前を左折するとアールデコ調の元山形第一小学校が現れます。此処も空襲が無かった故残った貴重な建物です。
 因みに此の学校の向かいから何度か書いたダットサン123トラックが出動します。何度も載せたので今回は省略

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今は「山形まなび館」となり資料館になりました。



R112鶴岡方面を走る

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 さて大沼デパート前から寒河江経由で月山道走行でもしてみましょうか?

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 西川町大井沢の入り口を過ぎるとR112は自動車専用道路になり、人、自転車等は従来の六十厘越を通行となります。

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 当然RS41はオーバードライブがONですから、坂道ではキックダウンSWシステムが物を云います。
 此れがあるので走行車線をグングン走る事が出来ます。此れが壊れると大変だ!

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 失速しない様に十分に加速します。

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 月山第一第二トンネルです。写真はほぼ同じなので混ぜてしまいましたが、此処も栗子トンネル同様吊り天井でしたので、全て撤去しました。
 完成は共に昭和54年ですが、この頃は既に我が家のトヨペットクラウンデラックスで由良海水浴場に行く事は有りませんでした。
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 流石にこれ以上は怖いですね。勢いよく走ります。
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 トンネルの全長はいずれも2キロを越します。
 暗いのでハイビームになって居ます。

旧R112

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  今年もヴァケーションを歌いながら、月山ワイン貯蔵庫を訪れました。色々此の貯蔵庫を調べると正式な名称は「名川隧道」と云って昭和9年に竣工されました。
 今回はhttps://www.youtube.com/watch?v=LRM-wfD_bksザ・ピーナッツが歌った物をUPしてみました。昭和50年頃の物だそうです。
 
 此処が六十厘越で難関箇所の一つで、狭い隧道ですから時折反対車線の車と接触と云う事も度々でした。
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 使用廃止は昭和54年頃で現在のR112が完成後ですが、名川隧道へ入る入口はエラく狭く、鶴岡方面から見ると「よくぞこんな狭い道を!」と思いました。
 今は払い下げを受けた月山ワインの私有地で関係者以外立ち入り禁止なので入れません。
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 こんな感じでワインが貯蔵されて居ますが、狭くてカーブがあり悲惨ですね。

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 一番初めの写真のスノーシェルターが此処に当たると思いますが、此処も事実上隧道と思う感じです。
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 多分ですが、此処は培養土を作る会社が所有している感じがします。特に此処はより記憶が鮮明でこの辺りでRS41の車内でお袋が作った弁当を食べた記憶が有り、リヤシートでモグモグしましたよ。

 それとこの辺りで大型車が対向車線を走っていたが、結構飛ばして居り、小さかったけど「ヒヤリ!」としました。ライトはハイビームでしょうね。

 他にも昭和51年10月29日に酒田大火がありましたが、この時西村山広域消防で応援に出動した時R47経由で行ったグループの方が早く酒田に到着したエピソードは余りに有名でR112の新規道路の重要性が叫ばれました。
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 もうすぐ名川隧道も終わりです

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 この辺りが間違いなく培養土の会社が所有と感じます。此処が終点かな?

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 「パパ!さっきのおっきいトラック怖かったネ。」と海老フライを食べながら親父と会話したかな?記憶がハッキリしませんが親父も運転したくないこのトヨペットクラウンデラックスなので、無言だったかも知れません。
 無論オーバードライブはOFFでないと危険ですね。キックダウンしたらトラックに突っ込むでしょう。
 

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 私は無邪気にママと遊ぼうピンポンパンで覚えたヴァケーションを口ずさんで居ます。


修理から戻りました

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 今年満20年となるグロリアVNY30ですが、あちこち故障が出ました。

 先ずは樹脂バンパーを焦がした原因のマフラークランプの腐食ですが、部品が手に入らず、バックオーダーして2か月掛かりました。
 次が今年の冬からおかしくなった右リヤドアのドアロックが掛かったままの状態、そしてACのバキュームホース破損がありました。
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 この状態で暫く走りました。何せ部品が無い。
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 今はきちんとした正規の位置。
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 苦労して手に入れたクランプ。もはやこの部品すら入手が難しい30系です。
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 この位置から見るとかなり焦げた事判ります。
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 ドアロック修理と、主治医のサービスで下手糞に塗った補修ペイント剥がしと近位色での補修。
 「明らかな色違いは駄目だ!」とやってくれました。
 
 私はその昔居たカローラ、サニー、商用車に色違いにペイントや凹んだまま平気で走って居た頑固オヤジ風にと思い何とも思って居ませんでした。

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 バキュームホース破損は大変です。漸く快適になりました。


葡萄の生育状況

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 網掛け、袋掛けまでどうにか終わり、追肥も行いました。追肥は米糠に豆腐カラの混ぜた物、化学肥料、牛糞、鶏糞、その他を撒いて居ります。

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 青枝も順調です。アンマリ刈り込むと今度は着色不良になります。
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 巨峰の樹と睨めっこして10年近く。
 当時と比べ自宅前の風景も大きく変わりました。
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 土の団粒化も進みミミズもかなり沢山棲息して居ります。
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 黄色い粒が米糠と豆腐カラを混ぜた物の水分が蒸発して出来た物。黒が鶏糞化牛糞です。

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 巨峰も結構大きくなりました。
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 フロントガラスにかなり接近中。
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 スチューベン。此方の袋掛けは非常に大変でした。

昭和の風情が残る

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 長井市の駅前商店街にやって来ました。
 随分前に長井駅前は昭和の風情が残ると聞いた事があり、次回以降に書く長井の名物を食べに行くがてらの撮影となりました。
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 県道9号線を目指して駅前を走ります。見て下さいこの懐かしき街灯を!
 昭和の街の代名詞ですね、興奮します。

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 それと同時に道路のセンターに地下水利用の消雪設備が備わります。此れも昭和の街の重要アイテムです。
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 本町の次は大町商店街。車が余り走って居ない様に見えますが一瞬そういう風景にタマタマ当たりました。コンスタントに車が流れるのでRS41も一緒には難しい撮影を余儀なくされます。
  
 それとこのアーケードを見て下さい。良いですねぇ~、まさに昭和ですよ!
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 こういう風景も昭和の街では重要です。今では見られなくなりました。

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 この木造の建物をバックに撮りたかったのですが、極めて撮影は危険な状態でした。
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 昔は多かったナァ!クランク交差点。此処が良い!
 ザ・昭和です。未だに残って居る事は素晴らしい!
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 目的のお店までひたすら北進ですが、商店街を過ぎるとこんな風景が・・・・此れも良いです。


修理から戻りました その2

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 外見上の変化として以前書きましたが下手糞に塗った補修ペイント(それも色音痴の酷い)を落として近い色で補修した事ですが、バンパーもレザーワックスでしばしの間綺麗になります。

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  綺麗になりました。
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 此処が特にひどくある種芸術作品でしたが、スッキリしました。
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 メーターは79000キロ余りです。撮影後大して走って居ません。
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 CS20型エンジン。現行車の割にスカスカなのがお気に入り。今回はプラグとオイルを同時交換しました。
 オイルエレメントは毎年冬タイヤ交換時と決めて居ます。(車検前整備です)
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 30万キロは持つエンジンでしょうと話を聞いて居ます。ややもすれば定年まで乗れるかな?今代替えする気は有りません。
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 うさちゃん号事ティーダ。此方はかなり走行距離を伸ばしますし、うさちゃん曰く「ロクな車が無いので、ティーダを酷使せざるを得ない」でした。





長井名物!

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 馬肉チャーシューメン!
 
 長井市には2軒馬肉チャーシューメンを食べられるお店が有り、そのうち1軒に行って来ました。行った時はもう一軒のかめやさんが定休日でしたので今回は此処まる久さんへお邪魔しました。
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 創業は昭和28年との事で老舗のラーメン屋さんです。
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 昭和の雰囲気がプンプンしますね。イメージとして昭和46年かな?ナンバーは「山形55 さ」をイメージして、運転練習の帰り腹ごしらえに・・・・。
 ミラーバイザーが付いて居るしネ!
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 私は迷わずチャーシューメン!それも大盛りです。
 この手の古くからのラーメン屋さんはどんぶりが小さく、普通盛りは足りません。(山形の場合)
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 スープは濃い感じがしますが、味はアッサリです。此のスープが虜になり、常連となる味ですね。
 ついうっかり私のラーメンの鉄則
 「幾ら旨いスープでもどんぶりの下1/3は残す」を破ってしまい、全て食べてしまいました。

 
  *私は大のラーメン好きで、その残す部位が最高の部分なんですが、ラーメンは全国何処の店でも1杯辺り塩分は10gを超します。越さない店は先ず有りません。
 チャーシューメンとなるとそれにプラスとなりますから、スープまで全部となると1日の許容量を大きく越します。

 ですからスープは残念ですが残さないとなりません。
 私も元は医療従事者であり、現役の社会福祉施設の職員ですから、塩分撮り過ぎはご法度。

 更に当家の一族は此処30年、親より早く亡くなる逆縁が多く、塩分に限らず「好きな物を好きな時に、好きなだけ食べる」をして亡くなった者も多いので30歳を境にこの習慣を改めこの時「スープの美味しい所を残す」と決心しました。


長井を出発して

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 万世大路を見学に行きました。特に二ツ小屋隧道入口がどう変わったか見に行きました。
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 駅前の医院を出発します。
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 R13に入って福島方面に進めます。登坂路があるので、此処ではオーバードライブのキックダウンSWが威力を発揮して3速に落ちて力走します。
 この車を使いこなすと、AT車の運転が上手くなると思います。
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 万世大路の山形県側入り口の「米沢砕石」此処から入ります。昭和40年までは若干違います。
 *注):昭和41年5月29日に現道が開通しますが、40年11月から翌年5月まで冬季閉鎖なので、41年は基本的には通行できずに終わりました。
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 米沢砕石を過ぎると再び登坂路。新栗子トンネルでは恐らくこれだけ登坂路は無いとは思います。
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 西トンネルを過ぎると福島ですが、撮影は東トンネルを出てから行いました。此処を過ぎると二ツ小屋隧道の入り口です。
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 東栗子トンネルのプレートです。


【投稿ネタ】夏休みの思い出といえば?

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   ヤフーより「夏休みの思い出」と云うテーマが出されたし、28年前の本日親父が亡くなった日でもあるので、投稿する事にしました。


 当地は今もこの時期は未だ夏休みではなく確か終業式の日ではなかったかと思います。前日の21日まではとても元気でまさか今日亡くなるとは誰もが予想しませんでした。

 今とは違い救急車が出動ともなれば「どこそこのお宅で救急車で運ばれた」と話題になる位でしたので、当家に救急車が来た事は確かでしたが、運ばれたのが「高村さんの年寄爺ちゃん(ひいお爺ちゃん)だど!」とか「若いお爺ちゃん(お爺ちゃん)だど!」と地区によってバラバラでした。
 当時ひいお爺ちゃんは山形県男性最高齢の101歳、お爺ちゃんは寝たきりに近い状態になって2か月前後でした。実際運ぼうとした親父は出て来ません。

 無論学校でもそういう話題になり「高村先生のお爺ちゃん救急車で運ばれたから今日は休みかな?」と私以外の多くの生徒は思っていましたが、校長より
 「今朝高村先生がお亡くなりになられました!」と発表が有り校内は騒然となったそうです。
 同僚や上司の先生方も職員朝礼で現実を受け入れられず皆動揺して居たそうでした。

 すると生徒の何人かが「イヤ~、高村先生が今朝通勤した所見たけどなぁ~」となり「救急車で高村先生の家族が運ばれたと聞いたけど、先生の奥さんでも付き添ったと思っていた」でした。
 「じゃぁ、あの先生の姿は・・・・幽霊??」でした。

 友人の話では校長が泣いたと聞かされ、どの生徒も嘘ではないと感じて泣き出す者が続出し、その日部活の県大会の壮行式があり、吹奏楽の生徒も多くが泣いて楽器を弾けなかったそうでした。
 亡くなる数日前吹奏楽部の生徒が悪戯で「チャルメラ」等をしており、親父が「お前ら、イタズラする暇あるならもう帰れ!」と一喝したらしくその後真面目に練習した事が忘れられなかったそうです。

 確か私も外周マラソンしていた時、イタズラがピタリ止んで真面目になった事記憶しています。

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 若い頃、実際運転した車でもある我が愛車トヨペットクラウンデラックスですが、晩年も1度は運転した様です。
 

  

旧万世大路へ行くには

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 東栗子トンネルを抜けると此れまでは有志が作った旧万世大路へ行く道でしたが、平成29年開通予定の栗子新トンネル工事に伴い閉鎖されその姿も変わりました。
 歴史的にも重要との事で新しいR13からの入り口を今回紹介いたします。

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 どう見ても入れません。以前紹介しましたが道路の真ん中に大きな穴があります。
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   どうやら右側の看板を見ただけで4輪車での侵入は難しい事が伺えます。新しい入口は此処からです。それと「発破作業」の文字が気になります。
 
  
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 一見良さそうな道路になりました。が・・・・

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 こげ茶色の道がかつてのR13で、一部は廃業した栗子スキー場を走ります。

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 水が絶え間なく流れて居ます。

高畠~南陽市の鳥上坂

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 栗子峠を引き返し高畠町、クラシックカーレビューIN高畠の会場にやって来ました。

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 決してイベント準備の写真では有りません。以前も平日通りましたが結構閑散としていましたし、当日もそうで市のたで長井市とは大違いです。

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 イベントではメイン会場ですが・・・・・

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 高畠を出発して、南陽市の鳥上坂を走ります。無論オーバードライブはONで、キックダウンを利かせて坂を上ります。
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 この鳥上地区は江戸の世から葡萄栽培が盛んです。
 今はデラウェアーの収穫が始まろうとしている所です。
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 山形市内の大沼デパート前に戻って次回のUPはその周辺を予定しています。

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