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Channel: 高村円淨のブログ
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怪しいナンバー

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 神5ナンバーの怪しい車を発見しました。
 もう写真を見れば有名な個体なので判ると思いますが、以前からどういう風にやって居るのか気になり私も今後の参考にと思い、記録を兼ねてUP致しました。

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 どうやってやったのか不思議でなりませんでした。此のかすれ具合とか封緘が不自然でないので。
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 特にフロントは全然違和感が有りません。
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 あっ!でもこれはリヤのナンバーですね。封緘の穴の位置で判りました。はっは~ん、リヤをコピーしたみたいですね。良し、私もしよう!
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 白い封緘の時は皆こういう穴があったのです。それが山形ならば平成7年から穴が空かなくなり前後同じとなりました。(平成元年で山形は白封緘は終わります)
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 実は品5と多5があるのでやってみようかな???
 長く旧車やるとこういう怪しいナンバーは持って居る物です。


西部警察繋がり

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 私等40代50代には懐かしい車も此処では見られました。西部警察では斬られ役の2台をUP致しました。
 でも私は別の意味でこれ等の車が懐かしく又苦い思い出がありますね。
 セドリックのDXグレードは私が入園した幼稚園の園長の車で、シングルタイヤのシビリアンンは送迎バスで、解体屋に駆け込んで居たチビヤン時代を思い出します
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 好きにはなれなかった園長でしたが、黒塗りのボデーに此のホイールキャップとフェンダーミラーが当時お気に入りでした。
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 NAPS時代の日産車は走りが良くなく、ボデーも痛んで現存車は少ないそうです。よくぞ此処まで綺麗に残りました。
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 230も好きですが330も捨てがたい魅力が有ります。
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 私が入園した幼稚園はシングルタイヤで濃いブルーラインの所が黄緑と薄い水色が幼稚園バスで、他に同じく薄い水色ラインのホーマーも有りました。
 程なくして写真と同じ色のバスも導入されましたが、実は薄い水色のバスがしばし故障するので、写真と同じ昭和54年式が導入されました。
 私は薄い水色が好きでこの色は当時余り好きではなかったですね。
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 因みにシングルタイヤのシビリアンは今余り残って居ないそうです。
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 ふと当時を思い出すのはバスが来る少し前丁度「ひらけポンキッキ」が終わり、8:30からののドラマで「花街の母」が当時放映されており、「~母とむすめ~ぇの暮らしがほ~しい~ぃ・・・・」となった頃シビリアンが我が家の玄関前に到着するのでした。

 「けっ!もう来ちまったのかよぉ~!」が私の毎朝の愚痴でした。それで、「あ~あ、今日も鼓笛かよ!」とか、「冗談じゃねぇ~ぜ、今日はリトミックだぜ、うめ組のEセンコーはうるせぇしなぁ~」とブツブツ云い

 「今日もいっちょ、奥○解体へ行こうか、おっ、奥にフロンテ(コークボトル型が好きでした)が有るなぁ、みたいよナァ、どうせリトミックは嫌だからフロンテ見に行こ~っと。」とバスの車窓から当時考えて居ました。

 でも時折結構当時はケバイ感じのM先生が凄く好きで「ぶどう組のMセンセーの事俺好きだし、迷惑を掛けない様にしなければナァ」と考える事も私はありました。
 実はM先生の御実家が比較的近くでお父上が幼稚園を経営され、方針が気に入ればそこにピンク怪獣を入園させようか?と今考えて居ます。(今M先生のお姉さんが園長です)又この先生は不良の私をかばってくれましたのでその恩義もあります。
 当時を思い出します。



希少な1963年式RS41

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 今回の「ところざわ」では40系クラウンが何時もと比べ少なかった様に思います。毎回参加すると思われる4台のRS46系が不参加だから余計感じたのでしょう。

 でも今回全くのノーチェックの40系を見る事が出来てそれだけでかなり興奮しました。それも初めて見る「アドリアブルーメタリック」の個体で更に凄い未再生ですから驚きが倍増します。よくぞ此処まで残った!の驚きがある個体です。

 初めは展示かな?と思って展示コーナーをくまなく探しましたが、スワップミートでの展示で全てを撮影する事は困難でしたので注目点をUP致します。
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 青系のクラウンは50系以降は姿を消しますが一般に青系が流行るとこの時代は好景気を意味します。東京五輪開催は昭和34年5月に決定となるので、黄金の60年代がRS21発売時代からスタートとなり青が設定されたのでしょう。
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 オーナーさんに聞いたところ、長く某法人がオーナーで30年以上休眠期間が有ったそうでした。
 車体番号を見せて貰うが、推定製造年月は昭和38年6月中旬~7月上旬。(限りなく6月中)と見ました。残っていた車検ステッカーからも先ず間違いないですね。
 丁度私立探偵濱マイクに出たあの個体ともしかしたら同じ年月日の製造と考えて居ます。(現在元々販売した旧車ショップにあるとマニアから聞きました)

 そうそう、それと私が昭和52年4月に廃車場で遊んだ個体と恐らく製造時期が同じかも知れません。

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 シートは間違いなくオリジナルで、アドリアブルーメタリック専用の内装用ですから、このビニール生地が無いとシート張り替えは困難になります。(西陣織の生地を生かすを前提にしています)

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 無論ドアの内張りもオリジナルで綺麗ですが、カーペットもオリジナルですから凄い!私の車は既に溶けて居り、子供の頃そう云えば・・・・でしたが思い出せず、カタログに有った赤茶の物にしましたが、よりオリジナルに近い色がクラウンクラシックスで販売されて居たのでそれに入れ替えました。

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 実はこの車入場した時一番ビックリした事がトランククーラーの吹き出し口が見えたので、此れは何が何でも見たい!でした。
 「でした」は意味が有り、漸く探し当てて、「俺の車と同じ本体がトランクに有るかナァ?」と思ったら無くて、(トランクの内装は私の車より遥かに程度が良かった)「???」でしたが、前オーナーの手によって外されたと思い込んで居ました。
 オーナーさんには既に話しましたが、不思議な経歴をつい数日前まで想像し、「結果何らかの理由で内装を別の個体から移植し、タマタマ其れがトランククーラー付きの個体だったのだろう」です。

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 注目は左端の温度SW。実は此れ私の車にも有りましたがとても昭和38年製造とは思えなかったので、後年付けた非オリジナルと思い捨ててしまいました。
 事実パーツリストには無い物で資料が手元に無く、私の車には右端に温度SWが強引に引きちぎられた痕跡があり、完全オリジナルでは無い物の最終型のSWを探し当て取り付けました。

 実はこのSWはRS41の書庫で書いた通り、思い出が有り昭和52年7月末かな?秋田県に行った時弄ってアイシングを起こして伯父に怒られました。


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 実はこれ当方が持つクラウン8用の吹き出し口と交換して頂く事になりました。
 クラウン8用はあくまでリヤシートの住人には良く効きカミさんなんかは「寒すぎる!」と苦情が来る寒さで一度乗って見ると本当に寒く、前のシートでは「少しヒヤヒヤ」程度で「HI」にしないと駄目でしたがこのタイプだと吹き出し口が調節が出来て運転席に向かわせて「M」で快適に使えます。

 その為今の物はスペアに回したいと思いました。自分もやったので万が一ピンク怪獣に破壊された場合を想定して交渉ししたのです。無論程度はこちらが抜群に良いので。

 オーナーさんの話では、かなりこの吹き出し口がヤニで汚れていたそうで、確かに車その物は喫煙された跡は感じられましたが、私の車はヘビースモーカーが4人乗って居りそれと比べるとかなり綺麗で、吹き出し口と釣り合わないと思ったので、恐らくはリヤトレーの作りから推定してトレーごと最近入れ替えられたと見て居ます。又トレーのビニールの色はオリジナルであるなら、ドアやシートのビニールと同じ青でなくてはならず、ラインも無いので、新車当時の物では無い事は明らかです。 因みに我が家でのヘビースモーカーはひいお爺ちゃんで後は貸出経験がある伯父、大叔父、お向かいの市長がかなりのヘビースモーカーです。 

 オーナーさんにお礼としてミッションオイル等についてお知らせ致します。

 注入口は「クラウンRS41」の書庫の今なら30ページ目で、2014年9月30日にUPした「ODについて」を見て頂ければ幸いです。上から3枚目のミッションの写真でドレーンボルトが下側と左側にボルトが付いて居る事が確認できる筈ですが、「その2か所」を確実に開けて給油します。当時ですら間違いが有って左側面を交換し忘れる事が度々あって、オイル交換忘れによるトラブルが見られました。それは整備書にも記載が無くドレーンの存在を知らないとそういうミスをします。
 因みにオイルはスタンダードミッションだけだと1.8L、オーバードライブを含めると2.1Lです。
 
 指定オイルはシングルの90番とされて居ますが、私は今はレッドラインを入れて居ますが、次回から少しコストダウンして鉱物油の90番とだけしています。デフは現在はトヨタ純正ハイポイド85w-90で、これは整備工場なら殆ど何処にでもあるでしょう。VNY30もこれを使います。

 他にステアリングギヤボックスは250ml、デフは1.5Lと整備書にあります。


ハロウィン??

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 ここ数年日本でもハロウィンが良し悪し別にしてすっかり定着した感が有ります。私はこの行事は30年ほど前に知りましたが、やはり巷で流行るハロウィンは「全く勘違いしているナァ」ですね。半ば呆れて見て居ます。

 さてハロウィンの時期となると思いだすのが写真の
キハ58-568です。
 昭和39年10月31日、新潟鐵工所で落成され新製時配属先は新潟機関区です。その頃以前紹介したいすみ鉄道に今は有るキハ28-346(当時)は千葉運転所に転属して居り(39年7月)不在でした。
 10月31日製造で覚えていた車輛だからですね。

 廃車まで新潟に所属し平成5年10月11日JR東日本管内のDMH17搭載車輛全てが一斉廃車になり10月下旬までにはロシアに無償譲渡されました。
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 見つけた写真によると568であるそうです。確かに警笛と単線雪かき板があるので、間違いないです。
 普通編成ですからもう晩年の姿でしょうね。山形までは走らないと思います。
 無論急行時代は何度も山形までは来た筈で、お爺ちゃんも運行指令できっと関わって居る筈。
 流石にお爺ちゃんも10月ともなると甥である航空自衛官だったパイロットの死は乗り越えた筈。
 それと当時は東京五輪終了から1週間ほどで日本の興奮も冷めた頃でしょうね。
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 この当時こんな風景は当たり前だった。

 10月31日もう山里では冬の準備がすっかり終わり、場合によっては「津軽平野」の歌の歌詞にある「おどぉ~ひとりでぇ~ぇ、でがしぇ~ぎ、支度~・・・」だったでしょうね。
 無論出稼ぎ労働者をキハ58-568も上野まで輸送したでしょう。


髭さんのセドリック

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 実は今回が初めて実物を拝見します。多分参加されると思い密かにどんな個体なのか楽しみでした。
 流石にそれを裏切りません。私のクラウンと同じ時期にレストアしたと聞いて居り、の野晒期間が有ったとの事で、結構腐食が進んで居ると思いきゃ、私の車と似た状態で驚きました。私は野晒はしていません。
 それでもってフロアーから当時の紙切れが出て来たとあり成程!ですね。
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 流石にサイドウィンカーは野晒時代を彷彿させられますね。前オーナーさん結構金を掛けてレストアしたのでしょうね。
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 遂に登場OKステッカー
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 これがsatosatoさんの車。OKステッカーがサマになります。
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 ブログでは中々見られないJAFステッカー。成程劣化して見えなかったのも納得です。
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アレレ?此の車って高速有鉛では??
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 ホワイトリボン。当時ものと見間違う出来です。

髭さん、31ワゴンさんの車

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 髭さんのセドリックでの注目点をUP致しました。それと31ワゴンさんのワゴンについては写真撮影の結果ナンバーが皆出て居りライトのみの掲載で終了とさせていただきますが、此処も注目点がありました。
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 こう撮影するとやはり長く見えます。
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 オートディーマーSWですねデンソーは右端に対してナショナルは中央です。
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 ドアバイザーが4枚揃って居ます。この年代の車で4枚揃いはそれ程ないです。
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 私の車にも有りますが、ドアの内張りの透明フイルム。この時代の流行りで、今回初めて見たのが取っ手にフイルムが付いて居る事です。
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ハイマウントランプ。安全に気を使って居ますね。

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 31ワゴンさんのワゴンです。東芝のシールドビーム球です。芯がシルバーなので新車時の物でしょう。
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 こちらはIKIですが、東芝の事業を引き継いだ会社なので、事実上東芝です。
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 やはり東芝ランプの配置が良い。

晩秋のクラウンGS130

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 大根の土寄せが終わり、秋の夕刻の草ヒロの写真に以前から似合うと思って居た曲が有ったのでUPしてみました。
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 撮影時間は16時の少し前。結構暗くなります。
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 そろそろ手前のホワイトリボンタイヤの下にある肥料を撒きます。
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 大根も大きくなりました。冬場用の保存分です。
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 甘くなる様に米糠を撒きました。
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 お礼肥はもう終わりましたので、
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 微生物の餌と云う事で米糠を撒きました。
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 米糠を撒く注意点として、土にすきこまない(但し定植の3週間前ならば好き込んでも大丈夫)

 秋の夕日に似合う曲だと思って居ました。

収穫の喜び

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 毎年楽しみにしている郵便局企画の三陸生秋刀魚の直送が届きまして、大根を引き抜き、新米を精米して食べました。今年初めての米は山形の主力ブランド
「つや姫」です。この米は登録された農家でないと栽培できない米です。
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 主役の大型トロ秋刀魚。これだけ大きい秋刀魚は中々地元のスーパーでは売って居ません。
 特別企画ならではの新鮮で美味しい秋刀魚です。
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 自慢の「おろし」にしても苦みが少ない大根。自宅前で栽培しました。
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 刺身用の秋刀魚です。これも食べなきゃ阿呆です。
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つや姫の精米です。米糠は勿論持ち帰りました。


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 刺身を撮影忘れましたが、本日の朝ごはんです。これが凄く贅沢な食事ですよ。


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 つや姫を栽培した農家より藁を頂きました。此れは来年以降の敷き藁です。

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 藁小屋のクラウンGS130です。内装の一部が汚れたり破損して捨てましたので、こんな姿です。




クーラーダクトを交換しました

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 イベントの11/1UP分で登場しました1963年式のトヨペットクラウンデラックスについて居たダクトをオーナーさんが譲って下さいまして、不安なくクーラーを使う事が出来る様になりました。
 オーナーさん本当に有難うございました。
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 此れまで使って居たダクトです。もう風化寸前でした。然しこれより他に物が無くて困って居ました。
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 吸気口なんぞは、もう悲惨な状態でした。写真には上手く収められませんでしたが、支柱部分が折れて「アコーディオン」状態だったのです。
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 一見何ともなく見える排気口は近くから見るとバリバリに割れて居ます。何れ補修したいです。
 (無論ピンク怪獣が暴れているうちは、譲って頂いた物とて保証がないので。でも怪獣を責める事は出来ませんオヤヂである私も頂いた状態の頃壊したので)
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 私が壊した35年前の状態になりました。オーナーさんは「煙草のヤニが酷かった」とおっしゃって居ましたが、私の車もこれより更に酷かったと記憶しています。落としてもこれよりは良く無い筈。

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 同じ位置から撮影した写真が有りますが、全体が綺麗なので良い写りですね。

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 意外に苦労して写した写真です。
 写真上部の中央にクールファンが見えますが、トランククーラーダクトと此れのコラボが中々撮れませんでしたが、今回綺麗なダクトが手に入り気持ちよく撮影できてこの写真が出来ました。
 知らない方には「ディュアルクーラーなんですよ!」何てとぼけますが・・・・(笑)
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 余り丈夫なグリルではないので、どうしても取り付け部分が弱くなり折れます。RS31の時代は鉄かアルミ製なのに41の初期はプラスチックになりました。でも最終的には鉄に変わります。
 我が家の車もヨレヨレで突いたら割れまして「北斗の拳」みたいな事してバラバラになり15年もこれまで付けて居たグリルを探すハメになりました。
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 これが排気口ですが、360度回転で来て、この様に起こせば確実に自分の所に冷気が来ます。
 交換で出したクラウン8用はあくまでリヤ中心に冷やすだけで前に来ないから使い物になりません。

 それと下の台ですが、これは高村オリジナルで確実に前に吹く様にと初めのリヤトレーボードがヨレヨレで押える為にこれを作ったのです。

本当に圧巻だね、初代セドリック軍団は

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 やはりこれだけ初代セドリックが集まるイベントはそんなに有りません。セダンよりワゴンやライトバンが多くなる現象は40系でも見られますが、やはり今はセダンが売れない時代故の現象ではないか?と私は見て居ます。
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 こう見るともしかするとセダンのテールをワゴンやライトバンに移植できそうな感じがします。
 40系の場合(昭和40年前期まで)は共通ではないけども、向きが幾らか変わるが取り付けは出来なくはないですよ。
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 正統派の4ナンバー。今回の参加車ではこの個体だけが4ナンバーでした。
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 バッチも良いですね。フォグランプも中々良いです。
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 屋号が良いですね。当時は「自家用」は絶対で、盛岡等では酷い物で、住所、氏名(商店等の店舗名)、職業まで4ナンバーは書かねばならない時代がこの車が新車の頃有りました。

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 有名な個体らしいです。

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デーラーステッカー。とても凝ったデザインですね。
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越路吹雪没後35年祭

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 昭和55年11月7日に越路吹雪さん(本名内藤美保子)が胃癌の為お亡くなりになられました。享年56歳。
 丁度私が7歳6か月の頃でして、当時は特に意識はしていませんでした。
 然し後年親にタマタマラジオで流れた曲「ラストダンスは私に」を惚れ惚れとして聴いて居た時、「お前あの歌手に抱っこして貰った筈だ」と云うので、ふと10数年前(当時)少し煙草臭かったオバサンの事か!と思いだしその頃から越路ファンになりました。
 昭和53年の事でしたが、「かったるい」幼稚園をお休みして暫く東京のスポンサー宅に居ました。当時経営していた洋服店にて私が見知らぬオバサンに「いらっしゃいませ!」と声掛けすると「まぁ、可愛い子番頭さんね!」とおっしゃった事が忘れられず、抱っこしてもらったのです。
 
 越路さんと云えば多くは「愛の讃歌」でしょうが、私は特に「ラストダンスは私に」を好みます。
 此れはYOUTUBEにありますが、昭和45年日生劇場で行われたリサイタルです。ピアノは夫の内藤法美さんで、この方も昭和63年59歳にて癌でお亡くなりになられました。
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 ラストダンスは私にがデビューした昭和35年の東京都庁前の写真ですが、カラオケで歌う時はこの写真を先ずは思い浮かべます。
 越路さんのエピソードとして、丁度この時代スポンサーの店で働く店員が「越路さん、タクシーをお呼びしますが、小型になさいますか?中型になさいますか?」と尋ねると暫く考えた後「小型をお願いしますわ」との事。
 あれだけの大物だったこの時代でも贅沢はしなかった越路さんの一面が残されて居ます。
 良く見るとダットサン210とかコロナPT20のタクシーも走って居ますのでその時のシーンも想像します。
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 越路さんは昭和38年も御贔屓されたか判りませんが、スポンサーがポンと買ってくれたクラウンデラックス。
 トヨペットクラウンでなくて、デラックスが付くタイプで、その上トランククーラーまで奢ってくれました。
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 今当然の如く、スポンサー宅は店舗も含めもう跡形も有りません。他にもどんな大物芸能人が来て居たのだろうか?
 
 でもあのヌクヌクした生活が破綻した事は私にとっては良い事でした。もしあの生活が今も続いて居ればこの車は遠っくの昔にスクラップだったろうし、興味も失せて乗る気が無かった筈。
 そればかりか、本当にロクでもないフラフラとした中年になって居た事は想像が付きます。

敗戦国の憧れ

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 何と云ってもこのキャデラックではないでしょうか?
 当時高性能だったプリンスグロリアとてこのキャデラックには敵わなかった筈。後日のUPですが、機構はヨーロッパではありますが、スタイルはまさにかなり真似て居ます。

 山形県でもこのキャデラックは縁があり、県知事公用車が此れで、恐らく同じ黒塗りで4ドアだった筈。その後が当時発売したばかりのセンチュリーになりました。(ベンツが県知事公用車とありますが、確認しようとした矢先オーナーが手放したので今の所調べられません)
 でもあの当時貧困県だったのでとてもベンツ何て買えただろうか?
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 私もキャデラックは4ドアが好きですね。それとこの顔が好きです。
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 このテールが凄く良い。未だ古さを感じさせず、日本の工業製品にも大きな影響を与えて居ます。
 リヤトレーに日本製のトランククーラーが付いた個体を見た事ありますが、それに点火時期調整が付いた個体が欲しいですね。無論東京五輪JAFバッチも似合いますね。
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 当時の日本ではこんな感じの軽3輪が多数走って居ました。それとて苦労してやっと買える代物で恐らく都市部に近い所ならばこのオート三輪もそんなキャデラックを横目に見ていた筈。

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 此処は関山隧道(昭和30年代撮影)当時の県知事公用車はどちらかと云うと栗子隧道よりもこちらを多く走り公用で越県した筈。無論先程のホープスターやミゼット等もその脇を走ったでしょう。


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 やっと見つけましたが私が40年前一番初めに好きになった自動車で、此処からが旧車馬鹿、別のブログで名乗る「羽前の国の旧車狂」と名乗る程になった原点の車。無論これが発展して我が家のクラウンが好きになりました。
 こういう話をUPする時はいつもこの顔を思い浮かべ書いて居ます。そして隧道話ではキットこのトラックも走っただろうと・・・・。
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 実はこのテールですが、こんな物にまで影響を与えました。

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 キハ82型のライトです。モデルは59キャデラックでした。お爺ちゃんが現役バリバリだった当時のつばさです。然し定年となるまでお爺ちゃんはキハ81よりはマシだったが板谷峠でのオーバーヒートで苦労します。


 最後に今回UP分写真に似合う曲と云う事で。
 特に関山走行時口ずさみますし、以前頻繁に出したかつらざわ橋でのイメージの曲です。

 因みに親父の分家S建設の社員さんと撮影の度お会いした砕石屋さんには先程UPしたトラックのタンクローリーが平成10年まで置いて居ました。多分タンクを使っていたのでしょう。

 因みに今年UPした写真撮影時伯父に何も云われなかったので社員さんは気付かなかったかな?以前マトモに「あんな所で撮影するなよ!」でした。

本当はクラウンRS41が主役でしたが

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 平成27年度道路交通起終点調査のアンケート依頼がありました。これは国土交通省で昭和3年から5年毎調査しているのだそうです。
 実は前回平成22年もこの調査票が送られまして、連続なので驚きました。

 調査は10/28と11/1でこういう時に限ってRS41はロクに走りません。10/18だったら面白いのにね!
 主役のRS41は10/28に出張で山形市内の県職員研修センターに行っただけで11/1は使いませんでした。
 でもピンク怪獣が生まれてからRS41の休日走行が少なくなりました。
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 実はRS41だけではなく、我が家に有る車全てが対象でうさちゃん号やお袋のミラ、そして本日のブログに出るY30も対象です。
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 こんな具合の調査票が来ます。1340㌔はクーラー付きなのでこうなりました。


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 Y30は10/28こそ走りませんが、まとまった距離を走りましたので話題にしました。それと大ギャフンが最後に有ります。解答はネット回答しました。
 この写真は自宅出発の時。流石にRS41の時は大事な出張なのでメーター写真は撮影できませんでした。

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 第一目標地点、カミさんの実家。その後隣町にある畑に敷き藁(つや姫栽培で生じた藁)を頂きに出掛けます。これが第二目標地点です。
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 つや姫玄米7袋(3俵半)210㌔積みました。妹夫婦の分も有ります。
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 ライトバンはこういう時威力発揮します。


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 終点の自宅ですが、おおよそ40㌔走行です。最近1度の走行でこれだけまとまった走りは中々有りません。殆どが20㌔以内が1日ないし、1度の走行です。

 で、大ギャフンとは・・・・な、何んと「貨物車輛は調査の対象外だった!」のです。


初代スカイラインと59キャデラック

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 似ていると思います。テールフィンを真似た国産車は数あれど、数ある中でも特に似ていると思うのがこのスカイラインや双子のグロリアです。
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 実は元々1960年式タイプが好きでした。グロリアも同様に1960年式が好きです。
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 キャデラックの中でも1959年式が一番カッコいいモデルですね。
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1960年式のカタログを真似てのショットです。
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 概ね同じ位置です。
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 リヤより。
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 上の赤いランプは飾り?そう云えば昭和30年代のバスの屋根にこういうランプ3つ有りましたね。
 キャデラックの影響でしょうか?
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 ステアリング周り。


ファインモデル

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 暫く忘れていたミニカーネタです。イベントリポでUPをすっかり忘れて居ました。
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 こう並べると壮観ですね。本当は全て並べてみたいのですが、今ピンク怪獣と云う強敵が居ますので代表としました。
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 リヤより。最近遂に発見しましたが東京駅構内タクシーを007の映画で発見しました。
 昭和41年式のRS40で、本当に存在したカラーと判りました。
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 上より。
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 フロントグリルの彫りが深いです。
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 やはりトヨタ自動車博物館収蔵のRS41を真似て居ますね。此処もドアの所にモールが再現されて居ます。


これは有る様で

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 無い車です。東北のイベントでは基本見ません。
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 有名な個体です。かつては関西のイベントに出たとか高速走行したとか凄いエピソードがあります。
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 流石マニア!この貼り方はタダモノではない!
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 このリヤスタイルが好きです。
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 インパネもシンプルですね。

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 スバル倶楽部のバッチ。此れは中々無いそうです。
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 ルノー。これも残って居そうですが先ず無いですね。
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 日本製のルノーです。

RS31とRS41の違い

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 今回のイベントで一番楽しみだったのが、時折当ブログにいらっしゃるOさんと会う事です。
 事前にOさんは「ドアハンドルが再鍍金に間に合うか・・・・」とご心配されて居ました。幸いイベントの少し前に納品され、万が一の社外品対応は取り越し苦労に終わり何よりでした。
 特に楽しみなのが、クーラー取付をされ、依頼先の業者が私の知り合いの業者でこれからUPする写真の如く綺麗でした。
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 主催者の取り計らいでOさんの隣に展示させて下さいました。
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 年式は1962年式ですが、ガラスから判断して昭和36年9月~12月に製造された個体です。当然ですが車検証は昭和37年式となります。
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 Oさんに事前にお聞きした所、クーラー本体は30年以上前の物で、頂いた写真で隣の四角い物も一体と思いましたが、ヒーターとの事。これはデンソーの現行製品です。
 RS31にはヒーターは標準装備なのに何故現行製品を付けたのか?本当はRS30では??
 いいえ、特殊な理由が有りました。
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 O さんによると、このコンプレッサは昭和36年製造との事。オリジナルでご本人のツテで探し当てた物、初めは製造年月の入ったステッカーがあったが、OH時ステッカーが剥がされたとのこと。実は私の車もそうでした。昭和38年6月のステッカーが剥がされていました。一寸残念!(M社長ごめんなさい!私たちは歴史物を重要視するので)
 それにしてもデッカイ!此処にオリジナル断念の理由が有ります。
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 今後残存車輛を検証する必要がありますが、本来写真のボルトの取り付け跡には「カタツムリ」みたいな形をしたヒーターブロアがあり、このままではブロアが邪魔して取り付け出来ません。
 新車或いは新車から数年してクーラーを取り付けた場合オリジナルヒーターは外してしまったのか?が今後の検証が必要です。
 今の所取り外して、当時の主流ダルマヒーターになったであろうが私の見立てです。
 尚オーバーヒート対策も施されて、ヒーターも技術者らしいM社長の凄腕が発揮されラジエターもかなり改造されて居ました。これなら不安なく夏場走らせる事が出来ます。
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 キャブレター。このタイプはRS40系の最初期にも採用されました。やはりこの窓のキャブレターが好きですね。
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 1961年式以降採用されたホーンリングとウィンカーを兼用するタイプ。1961年式にマイナーチェンジした時RS20系も併売されましたが、このタイプは採用されず、旧型のステアリングのままでした。
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 オーバードライブとドアランプを兼用しているとのこと。此の車はオーバードライブが作動するそうです。
 実は観音開きともなるとオーバードライブ作動の個体は殆どなく私が確認しただけで10台は有りませんでした。RS40系以上少ないです。

昭和37年製造でも

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 前期と後期では装備面で違う所が有ります。
 Oさんの車は当然前期型。判った事を此処ではUP致します。
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 丁度この写真を撮影した時は素人バンドをしていた時間帯です。見学者は本部方面を見て居たので、その隙に!
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 この写真もそうですね。同じ時間帯です。

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 此れは時間帯が違いますが、前期型ですから左Bピラーには「ある物」が付いて居ません。
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 RS40系にはないOPTの花瓶です。
 リヤシートもフロントより高く、誰だったか忘れましたが、「クラウンは同じクラスの車の中でも運転手付きで乗る車として開発されて居る」と書かれた方が居ましたが此れを見ると納得します。
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 「ある物」とはBピラーに見られるリヤシートからラジオ操作が出来るSWです。昭和37年後期分製造から見られます。それが3月からそうなのかは現時点では私は判りません。
 知り合いの話ではこの装備はそんなに長い間作られた訳ではなく次のRS41用にと試験製造との話が有りますが真相は不明です。
 1963年式からRS41は全てオートチューナーになりましたが、1964年式になるまでリヤシートからラジオ操作は出来ません。
 リヤからのラジオSWは無い方が余計な装備が無い分トラブルのリスクが減り良いですが、何となく旧型にあったが新型には無いので1963年式は損なモデルと思いますね。
 この時代ラジオの地位は高くRS40系の場合アクセサリーだけ作動させる時、ラジオだけが作動します。

 オートチューナーは便利ですね。オールオッズの時期に大相撲秋場所で、私は相撲が好きですから東北と関東ではNHKの位置が異なり東北のままでは聴けません。オートチューナーで調整します。
 追伸、ですから鶴竜が変化で優勝決定戦を征したとしても価値が無いと批判します。横綱たる者大技で大関を倒して欲しい。
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 参考、純正クーラーSWの位置。基本的に右の写真の位置に付きます。
 左はダッシュタイプですが、リヤクーラーもこの時期は発売されて居ますが、カタログには写真が有りませんでした。RS31の時代は40系の時代以上クーラー付きが無いですね。ですから純正ヒーターがどうだったかは調べるのに時間が掛かりそうです。


外車はぜ~んぜん判りませんが

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 本日UP分はフォードであるのは確かですが、それが
40系の参考モデルとなったファルコンなのかは判りません。聞いた話では1960年、1961年モデルと聞いて居ますが、どうもそのモデルとは思えないです。
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 テールが丸く、リヤガーニッシュ付近が給油口と思われる場所があるので此れはファルコン??
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 比較。できるかな?
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 何となく50系に似てるかな?
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 こちらはより40系に近い感じです。
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 メーター周りは40系に近いな。」
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 こんな感じのインパネ周りが好きです。50年以上前のデザインですが未だ古さは感じません。
 車に限らず当時の工業製品もこんな感じのデザインや配色ですので、我が家に有る家財道具もついつい長く使いカミさんに文句を云われるのでしょう。
 結婚して3年以内に60年代初頭の物は皆引退させられました。

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 所沢では外車も多数展示されて居ます。

いしゃ先生志田周子を見ました。

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 ここ数日ブログを休止していましたが、実はパソコンの
キーボードをピンク怪獣に壊される大きなトラブルが発生して休止を余儀なくされたのです。

 本日上手い具合に休暇が取れて、昨年10月末にブログに書いた私のクラウンデラックスを登場させたいとあったが、「車の部分をカットしました」と製作会社よりあったが、どういう具合に纏めたかも含めて見に行きたいとなり、本日の運びとなりました。

 山形県のみ先行上映となり、他の都道府県は来年1月9日以降となります。

 先ず「車の部分をカットしました」については、どう纏めたか?は最後が昭和34年の保険功労賞のシーンで授賞式のシーンだけで終わりとなり、その後亡くなる昭和37年7月までの字幕で終わりました。一切旧車のシーンは無いです。その為旧車目的だったら面白いとはなりません。

 それと多分不思議だと知らない人が見て思うシーンについて解説すると、周子の母親が亡くなるシーンがあり、多くはボーサンが出ると思われがちですが、大井沢地区は殆どが神道なので、神道のお宅でないと驚くと思います。
 大井沢地区は元々は仏教では有りましたが、明治初年度にお金の関係で湯殿山に変更になりました。その為神道になったのです。
 親父の実家の裏山にある明治以前のお墓を見るとどれもが仏教徒で有った事を示す戒名が掘られた墓が有ります。位牌については廃仏毀釈もあり、全て寒河江川に投棄し、流れ着いた所が寒河江の慈恩寺で、皆慈恩寺に位牌を拾い上げられ祀って貰い、今も慈恩寺には頭が上がらないと一族の人に聞きました。

 それと本当に戦前期までは大井沢は陸の孤島で、映画にも出ますが、現在の大江町左沢へ行かないと外科治療は出来ませんでした。又左沢へ行くにも、根子(ねこ)地区を経由して峠を登って大江町の外れに出て(現山形県知事の御実家)そこから更に歩いて左沢に行きます。現在は長いトンネルがあり、快適ですが、以前は大変でした。
 その通過地点のM家の本家に伯母が戦後すぐ嫁ぎお袋より年上の従弟が生まれました。
 因みに大井沢診療所から根子までは10数キロ離れて居ます。左沢となると一体何十キロなのか見当が付きません
 伯母の嫁ぎ先(従弟の家)は40年ほど前に大江町を離れ菩提寺が今も大江町の外れです。
 あくまで大井沢地区にバスが通ったのは「戦後」です。尚東京に行くとなると左沢駅に行く必要が有り、東京からとなるとまさに外国から帰国と云う感じです。

 それとお金が無いので医者に掛かれないは戦前は特に大井沢では当たり前でした。実を書くと親父の実家は金貸しらしい事もしていましたが、多くは金を返せず田圃を担保にしており田圃で返すがほぼ常識でした。田圃意外にも山を担保にしているので途方もない面積の山があり、私自身迷う事間違いなく100%帰れないので絶対に山には近付きません。その山で生前の親父は山菜を採って私たちに食べさせて居ました。
 差別的なセリフも有りますが、それでもかなり抑えて居ます。実際はこんな甘い物ではありませんでした。今の人なら即時帰ってしまう仕打ちでした。


 特に当時を彷彿させる映画として近い物として次のYOUTUBE映像を紹介します。
 昭和40年公開の明日は咲こう花咲こうです。無知程怖い物は無いを示す内容です。以前は概要的な映像が有りましたが消されたので多分DVDが売られて居る気がしますので、興味ある方は是非。

  それと村の餓鬼大将だった伯父の写真です。
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 山形大学定年退官近い頃の写真で、64歳の時です。志田先生がもしご健在ならもう「ブッたまげた」でしょう。
餓鬼大将の○吉クンが・・・・でしょうね。物理数学科を担当し著書も出して居ます。
 職場に福祉施設実習に来た学生に(物理数学の○吉教授の講義眠たぐなんべ?」と甥である事を隠して聞くと間違いなく眠くなると云い、「子守唄の○吉」のあだ名が有るそうです。
 でも伯父は弟である親父が早く亡くなり「○四郎の替りをしなければ」と云う所もありますので、有り難い伯父です。独身の頃は「早く結婚しないと」等々。

 
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