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大物発見! その2

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 前回紹介した謎のトヨタバスですが、エンジンとシャーシ回りはトヨタ製でボデーはバスメーカー製造の貴重な個体である事が判りました。
 自動車ガイドブック等にはない中々見られない個体ですので、このままずっと残る事を願って止みません。
 
 ただ、持ち主と思われるご家族は正直処分に困っている感じでした。云うまでもなく「これは非常に貴重な物です。」と知恵を付けました。
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 前回のおさらいとして出しました。
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 塗色は長く親しまれた桜=ピンクと紅花=赤のツートンに白=雪のライン。前回の写真参照で米の意味は米澤営業所所属の意味です。

 山形交通は当時結構トヨタバスを採用したそうです。このバスは急行などの表示が残りもしかすると旧万世大路を走行した可能性があります。
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 8月の車検ステッカー。中は朽ちてポロポロになっており、いつまでの車検なのか判りませんが、昭和50年だとすれば定期点検ステッカーが跡形もないとなれば、昭和46年が正しいと思います。

昭和38年登録なので、8年と非常に短いですが、当時山形交通は羽振りが良く、8年で廃車はなくはないと思います。何分山形の独裁者○部天皇が政財界を握っていたしねぇ~。彼が会社社長ですから。
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 白いステアリングはトヨタらしいですね。
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梶目さんのバスもボデーの腐食で悩まれていましたが、多分同じメーカーなので痛みやすい構造かな?凄いデッカイ穴が開いていました。
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 物置、それも肥料置き場です。リヤのカバーはウェザーストリップの劣化でガラスが落っこちた感じです。
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 この個体なのか判りませんが、昭和39年5月撮影の山形駅前での写真に似た車両がタマタマ出ていました。
 この駅舎は昭和39年の末には解体です。
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 クランク穴があります。
 ナンバーは「山形2 あ 10-56」でした。当然ですがこのナンバーは今と同じ緑に白文字でオレンジに黒文字ではないです。(昭和37年5月で終わり)
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 こんな感じです。


観桜会その 5

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 関山での観桜会です。いつもの悪戸での花見、そして関山名物慶翁桜を見て春を楽しみます。
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 ここは旧R48の村山和十郎翁の生家へ向かうルートです。(関山街道でも石碑が多く存在します)恐らくここが要所だったのでしょうね。
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 慶翁桜の林。そもそも冬場の出稼ぎ対策で昭和50年頃より栽培が始まり冬場の桜を楽しむ事を目的に広まりました。関山と猪野沢を中心とした東根市東部でこういう風景を広く目にします。

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 撮影当日も一部散り始めでしたが、まだ満開の場所を探し当て撮影しました。

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 変わってこちは、作並の桜廊です。レストア終了から毎年ここでの観桜会はやっています。当日は良い時期でしたが・・・・・。

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おやおや、不穏な空気が漂います。濃いグレーの車がかなりイライラしていました。
かく云う私も相当イライラしていました。
その前にいるセダンが空気を読めない下手糞な運転なのです。

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原因の車です。制限速度を下回る遅い速度は事故の元。確かにスピード違反ではありませんが制限速度
-20キロ走行もかなり見られました。困りますね、
 速度が出せないなら安全な場所に停車して後続車に道を譲る。これは運転の基本マナー。


クラシック&ヒストリックカーミーティングIN仙台

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 有り難いもので、ネタが次々出来て切れる心配がなく、相当な「ネタ待ち」状態です。それで旬のネタを最優先したのでこのネタが遅れてしまいました。

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 さて回のクラウンMS41Fオーナーさんのお仲間の車みたいです。青森から御苦労さんです!
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 昭和43年式のH130スペシャル6です。
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 シフトパターンは一般的なパターンです。31系辺りからこのパターンだと思いますが、(縦目は違うパターンだった記憶があります)因みにこのパターンはクラウンやコロナのパターンです。
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 内装は先のMS41Fとは違いオリジナルのままみたいです。
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 スカイラインS54Bです。本当にプリンスなのだろうか?
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 良くあるんですよねぇ~、日産なのにプリンスと云う奴が。昭和41年8月1日以降プリンスはありません。
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 多分プリンスかな?車検証見ればはっきりします。
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 左は実在したプリンスデーラーのオーナーズクラブ。但しこれは複製品ですが、よくできています。
 右はオーナーズクラブのバッチでしょう。


本日の作業

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  4/23:果樹全てにストロビー1000倍散布。

  4/24:果樹全てにスミチオン1000倍散布。
      自宅前畑にネギ苗7パック分定植。

  *不思議な縁を感じる事ありました。絶対売れない
   と思っていた売家が来月新住人が入るとの事。
    親父の最期の教え子のご両親が買われました。
    実は今一部貸しているお宅も親父の同じく最期
   の教え子の両親に貸しています。
    昭和62年の3学年関係者がこれだけ集まると
   嬉しいですね。             

ヨタハチ昭和43年式

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 宮城県に生息するヨタハチです。年式は昭和43年との事、私にはオリジナルかどうかは判りませんがUP致します。
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 綺麗に化粧直しされた個体です。
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 リヤより。
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 あれ?これって原則昭和42年12月31日以前では??或いは登録が43年で製造が42年??
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 デミコンが付いていますね。以前話題沸騰となったウィンドーウォッシャーはオリジナルでしょうかね??
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 トヨタのマーク入り。
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 昭和43年というと私は真っ先に思い浮かべる事は山形県が近代化された年だと思います。43年を境に私の近所でも自家用車を所有するお宅がグンと増えて、所得も上昇、関山峠も今の道路になりました。
 またこの年国道13号線が開通し、今もR13というより、バイパスと呼んだ方が馴染みやすい近代化された時速60キロで走れる道が完成。
 RS41もオーバードライブの恩恵が漸く受ける事が出来ました。

ホイールキャップ交換

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 以前から様子観察中のMS105用ホイールキャップですが、ホイール内で回転してチューブを切る形になりかねず、以前使っていたH331用にしました。
 元主治医の友人が知り合いからもらったそうですが、結構嵌める際力仕事で場合によっては手を怪我しそうなので使うのを止めました。その後忘れた頃使った時期ありましたが、2枚をどこかに落っことし、紛失したので、ガレージに飾り付け用にして、状態の悪い物を今回使いました。

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 こんな感じになりました。

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 長らくガレージに置いていたので汚いです。

 *日産ディーズ納車から1か月以上になりますが、とんでもない事が発覚しましたねぇ~。
 燃費改ざんで、如何にも三菱らしい詐欺行為で損害がでました。

 我が家では日産のブランドで販売したので買ったにすぎませんが、これが三菱のブランドでは絶対買いたくない車です。やはり同じ事考える人は少なくなく販売台数は日産が46.8万台に対し三菱は15.7万台の販売でした。おおよそ3倍もの差があります。

 あの時、おかしな現象が起きました。注文時3/10頃に生産開始で、納車は4/10頃を見てほしいとありましたが、ミラの車検は4/26なので大丈夫なのでそれで契約しました。

 ところが・・・・2/29に登録が完了して3月半ばに納車されました。今思えば内部で今回の問題が発覚し、まずは注文分は急いで生産して、作るだけ作って、儲けるだけ儲けて生産、販売中止しても食いつなげられる様に対策を練っていたと思います。
 やはり三菱は自動車を作ってはならないメーカーです。おそらく今回の詐欺事件で三菱自動車が潰れる事はありませんし、前回のリコール隠し同様いい加減な対応でユーザーを茶化して再生を図るでしょう。
 もう見えています。
 


予想はしていたが

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 原稿を読みながらの会見でした。恐らくこの馬鹿なオヤヂらは「早くおわらねぇ~かなぁ~。」とか「とんでもない時に社長になったぜ!ちっ!運がわり~なぁ~。」
 程度にしか考えていません。
 
 大体において部下が書いた原稿を読んで会見しても全然誠意が伝わりません。

 ただ云える事は三菱自動車は今後絶対買わない。今回のディズの補償をきちんとやれ、だけですね。
 日産としてはまずは三菱自動車がすべて報告書を出すまで待つと新聞にありました。

 ノスタルジックヒーローによると、平成元年8月頃三菱自動車の今田さん(明治45年生まれ)にかつての三菱についてインタビューをしています。
 今田さんによると1960年前後の三菱のトップは自動車という物を知らず、優秀な図工(ずこう)と呼ばれる職工に全てを任せていたそうです。

 その図工の1人が私の親父です。親父は昭和38年4月より40年3月まで設計を担当しました。その後退職し教師の道を歩み昭和44年4月より生家の中学校に新任教師として戻り、47年3月に結婚し62年7月に死亡するまで全く自動車には無縁な生活でした。
 自家用車は三菱は選ばず、涙目クラウンRS41の後は全然車は判らないから裏の山交バスドライバーが勧めるカローラでいいやのノリで、そんなドシロートが設計した車なんかに乗れないとは思っていました。

 こうは書きましたが親父については男としては最高の男だと思いますし、尊敬できる男です。あくまで親父は全然自動車には興味関心はなく、将来は自動車が普及するだろうと見込んでの就職でした。


情けない会見です。笑ってください。

マスターシリンダーキャップ交換。

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 昨年の今頃かな?はっきりした時期は忘れましたが、クラウンクラシックスさんのブログに「ブレーキ&クラッチマスターシリンダーのキャップを1800円/個で限定販売する」とありました。気が付いた時には「もう在庫なし」でした。

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 クラウンクラシックスさんのブログにあった、長年の使用で劣化したマスターシリンダーキャップの写真です。
 今使っているシリンダーは既に15年選手ですので、何時こうなってもおかしくないレベルです。

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 右がこの間オークションで落札した社外新品で、左が15年選手の純正。一寸社外と純正なので変えたいな、それに15年選手では上の写真みたいになるのも時間の問題。
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 先程書いた通りクラウンクラシックスさんでは在庫なし、でもこのシリンダーは最近の車種まで作ってきたので、まさか製造打ち切りはないでしょ~。
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 狙い通りでした。今の製品は中国語も併記されていると聞いており、まず製造廃止はないと思いました。1つ637円でしたので、結果的には安く上がりました。
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 やはり見た目がよくなりました。まずここだけ見れば純正か社外かは判りません。青いペイントはクラシックカー名古屋さんでレストアの時確認ポイントで塗ったペイントみたいで元々はありません。

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 ここからでは判別不能。
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 今年の予定としてオールオッズ&クラウンピクニックは参加予定です。それとところざわも参加します。
 ブログ仲間の皆さんに案内を出しました。




私が知りたかった事

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 どういう経緯で今回の詐欺事件が判ったのか?謎でしたが漸く上記の記事で理解しました。
 我が家で受注したのは今年の2/15で2/29には届け出だから、この時期は調査中だったのでしょう。でもこの時点では副社長や社長には伝わっていなかった。
 昨年11月に日産に指摘を受けてたみたいですね。社長に伝わったのは4/13だそうです。
 更に平成3年から今回の様な詐欺行為をしていたそうなので、平成12年16年は1度すらやってはならないリコール隠しをして大騒ぎの中着々と悪事を働いていた事になります。

 今まで日本経済に甚大な影響を与えるので激しい事は控えて来たつもりですが、この際日本経済がダメージ受けても仕方ないけど、こういう詐欺集団は倒産させるしか道はないですね。だってマダマダ悪事が出ると思いますよ。
 今回もまず間違いなく何らかの官民問わず大きな組織が救済するだろうが、止めて欲しい。


 

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良い画像を発見しました。今日三菱自動車の社長が
阿保面丸出しで会見しましたが、彼の顔がここにある亡者の様な顔に見えました。この期に及んで「受注が詐欺行為前の半分になった。」だそうです。ふざけるな!金儲けの為なら対象外の車を生産するだと?あれだけの悪事をしてフツ―生産自粛だろー?彼等とお前は変わらねぇなぁ!でした。まさに三菱自動車の図。

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あの阿保社長そっくりでしょ!

豪雪地帯

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 以前紹介したファミリア1200のすぐ近くにあるコロナマークⅡのライトバンですが、例外なく潰れていました。
 この地区も結構な豪雪地帯なんでしょうね。

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 あまり興味がない個体なので今までは判りませんでしたが、最近判別付く様になり、フロントグリルの形から後期型です。
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 リヤから見るとかなり痛んでいますが物置としては現役みたいでした。
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 ガラスが割れていないから気づきにくかったかな?
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 後で青に塗りなおしたかな?


クハ485引退に伴い

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 ふと思い出した事が仙台電車区所属のS-7編成が引退した事です。引退と云っても23年も前でマダマダ走れそうな個体で非常に残念がりましたが、この度クハ485系が総引退するとあり、引退原因が著しい老朽化でお客を乗せて走るには限界だからだそうです。

 パトカーとは違い寿命目一杯は使わないんですね、タクシーやバスも原則もう少し走れる所で引退させています。客商売の道具ですから万が一は絶対許されませんので、惜しい、勿体ないは命取りになるので、ここは鉄道模型で楽しむべきですね。

 JR西日本だったかな?確かマニアの意向に応えて結構長く使った車両がありますが、整備現場では悲鳴を上げて「もう修理できませ~ん、勘弁してくださ~ぁい!」と訴えても聞き入れられず困ったとあった記事がありました。見た目とは内部は違うんですね。
 


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 タマタマ見つけた東北地域本社色のモハ454-7です。この車両も思い出あります。S-1編成での蛮勇とは違い、仙山線の仙山トンネルで引退間際の頃、次の歌の節の様なモーター音が聞けました。
 S-7編成はほぼオリジナルで近郊改造はしてあるが昭和40年製造当時の姿でこれが入線すると喜んで飛び乗りました。


 ♪偉大な女は~偉大な男を育て~・・・が余命いくばくかではあったが老体を振るって走るモーター音に聞けました。さらに古いS-202編成は翌年平成6年廃車でしたが、これもマダマダ行ける状態でした。

 

JAF関連

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 少し前のオークションですが、こんな物までもが結構なプレミアムが付いたと云う事で記事をUP致しました。
 又山形県にJAFが開設されたのが昭和45年。
 従って大阪万博のバッチが本来ですが、何とこちらはこの間のオークションで5万円と驚く価格に上昇!買えませんね。多分余り数が無いのかな?実は私殆ど見た事がないので。
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 これは当方の物ですが、底値になった時に買いました。大方この年代のマニアの車に収まった頃入手しましたが、4年後の東京五輪を見越してか再び価格が上昇しているみたいです。(私が手に入れた頃より皆高い)

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 今回の主役、これも私が手に入れた頃の本体以上高い価格でした。
 この資料で判りましたがJAF五輪バッチは今まで1000個限定と聞いていましたが、実は大間違いで20000個でした。でしょうね、でないと大阪万博以上高い価格になるんですから。

 発売は昭和39年9月1日~11月末日までで、まさに東京五輪開催中に集中販売でした。価格は1500円ですが、当時は新しい物好きが加入したJAFなので、あっと云う間に売れたでしょうね。

 因みにこれ、オークションで31500円!になりビックリしました。私が入手したバッチ新品でしたがこれでも地元の高級寿司屋で最高のクラスが1人前喰えるおつりが来ます。


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 いつもの写真ですが、昭和時代ならばかなりの「見栄張るクン」仕様ですね(笑)

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 今月号のJAFメイトに面白い記事があったので。
 希望ナンバーのまとめです。

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 こんな理由が多いみたいですね。

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 ご当地ならではの希望ナンバーだそうです。
 3298は結構ミニオーナに山形でも見られますよ。
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 ナンバーごとの順位。3ナンバーの1位は・・・1ですが私が見た範囲は大半が中古のクラウンとかレクサス、外車ばかりでした。そしてその6割はシャコタンにしてダッセ~ぇ改造車です。
 私には「俺は学生時代は成績がビリだった。金もないから中古の高級車買って1番の雰囲気を味わいたい!」と主張しているように見えます。

 因みに3ナンバーで現在登録している・・・1のナンバー車を登録詳細証明書を取ると殆どが自然ナンバーがその前に登録されている筈。

 5ナンバーや軽4は2525とか1122は結婚年数がソコソコの夫婦が選ぶのかな?家族円満でしょう。





耕作開始

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 今回は葡萄棚の補強を実施し、除草と枝豆を撒く準備をしました。

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 これは補強前。
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 不要になった担架の柱を転用し、一部はパイプを足して補強。随分棚が安定しました。
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 シャインマスカットを定植する所を綺麗にして
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 葡萄棚の下にはトウモロコシの種を撒く準備をして、
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 棚が掛からない所には枝豆を撒きます。

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 刈り取った草はこの様に積み重ねました。
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 他に藁縄を腐らせる為に刈り取った草を積み上げます。


自宅前

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 ここが今年から野菜栽培のメインです。やはり果樹と野菜の両立は難しく更に2キロ離れているので、作業は予想を立ててやるので外れると手間が掛かり葡萄園には野菜は秋冬の野菜を作る専門としました。
 (自宅前は夏と秋専門です)
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 今年はここには枝豆とホウレン草、ニンジンを植えます。反対側にはキュウリ、トマト、ナス、トウモロコシなどを植えます。
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 玉葱の比較。上が自宅前、下が葡萄園。葡萄園側はそもそも良くない苗を植えましたが、もう区別が付きません。

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 長ネギです。今までこのタイプは最低50パックからの販売が求められましたが、HCで7パックからなので2パック定植しました。


かつてこの車も

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 妙な事故を起こしました。
 今自動ライト点灯装置が取り付け義務化になろうとしていますが、薄暗くなったら必ずライト点灯した方が絶対的に得をします。
 
  畑に物置として置いているこのGS130型クラウンですが、無灯火の黒いダイハツムーブが右車線におり、それに気付かずドン!となり、これが日中ならば下手すると私が過失割合が高い或いは上手くいけば5:5ですが、私がかなりごねて、無灯火車両が相手ではどうにもならない、示談のハンコは押せないと云い最終的に8:2となり私の過失がかなり小さくなりました。

 ですから下らない事でライトの電気をケチるとこういう大損をしてしまいます。
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 畑において早い物で9年を過ぎました。

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 実はこの写真を撮影して、何気に助手席のドアを開けて閉めようとしたら、ドアが閉まりません。半ドア状態にすらならにのです。

 ドアのキャッチャーを弄ると鍵は掛かりそうなので、ドアを押し付けて外から鍵を掛けたら見事ドアが閉まったが今度はロック解除が出来ません。そもそも余り開けないドアなので、まぁそれでも良いや!

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 現役末期の頃の写真ですが、実はこの撮影の前後に初めに書いた事故が発生。右テールを中心に破損しムーブは左ライトやフェンダーなどを破損。


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 あれだけ綺麗だったGS130も今は。


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 これも現役末期の頃。トヨタ博物館に行きました。



松島基地から当家へ(リニューアルその1)

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 さて5月になりました。
 最近ブログ主に訪問者の年齢、何を見て訪問したのか、が判る様になり当ブログで一番の人気が
 「松島基地から当家へ」
でした。あの記事は振り返りますとタマタマ東京国立競技場を解体して新しくするとあり、同時に昭和39年の東京五輪では競技場上空をF15戦闘機が松島基地から飛び立ち五輪を描いたは非常に有名ですが、その1機にお袋の従兄が入る予定でしたが、殉職しこの人を供養しようとUPしました。

 まずは本日は記事のリニューアルに当たり第一弾がお袋の従兄の様なケースで封印になった歌があると聞いたので、紹介しなければなりません。
 まず老若男女問わず日本人ならこのお二人の歌手を知らない人はいないでしょう、恐らく封印により知る人はグッと少なくなった歌がこれです。

「そこは青い空だった」です。
発売が昭和39年4/25説と5/3説がありどちらが正しいのか今は判りませんが、昭和39年~40年は結構自衛隊機などを中心に飛行機墜落事故が多発し、発売間もないけれども中止に追い込まれたと聞きました。
 ですから幻の歌とも云われて居ります。歌を聴くと本当にいい歌でカラオケでは絶対覚えたい歌です。でもカラオケには中々ない。

 恐らくお袋の従兄も「ムフフ・・・俺の為にあるいい歌だ!」と思った筈です。
 何分当時は結婚して1年ほどで、子供も授かり、40年には日本航空へのジェットパイロットとしての就職が決まった頃です。又伯父である私のお爺ちゃんが「勘当を解いてやる」と云い会える日が近い時期でした。
 (但し本人にとって祖母である、私のひいお婆ちゃんはその妻を嫌っていたが、ひ孫に会いたい気持ちはあったそうです)

 お袋の従兄の場合、腕が悪くてではなく、訓練機のF86に不具合があり、腕が良いパイロットだから長い時間の訓練予定ではないので「絶対事故はない!」と上官が判断し、結果的には悲劇へと繋がりました。
 今なら国家賠償を求めますが、当家としては「初めからこういう事を覚悟しており、まして追い出したのだから一切賠償請求はしません。」でした。

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 ひとまずは、R48付近の風景を。まだここは未調査だけど旧道の可能性は否定できない所です。

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 そこから少し行った所の慶翁桜です。

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 旧道宮城県側の入り口前。何度もここをこの車は走りました。

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 全く関係ないけど山形城の前。

 *当面の予定として、書庫のクラウンRS41は連続にする計画なので、連載は時間がある時にUPし、RS41以外は書庫に関係なくUP致します。
 RS41に何かあれば例えば事故で廃車とか甚大な事がない限り連続掲載終了後に古い順からUP致します。


昭和39年5月19日の出来事(再UP)

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 故人の経歴を2年前の記事まで戻る事は大変なので似た内容を再UP致します。

 昭和13年2月に生まれ父親は戦艦大和で戦死(享年
38)で母親がお爺ちゃんの妹ですが、昭和26年肺結核により30歳で亡くなりました。両親が居なくなったとの事で当家で兄弟3人が過ごす事になり、故人が長男です。

 特に頑張ったのが私のひいお婆ちゃんで、「何としても育てねば!」の気持ちが強く、お袋や叔母が生まれると10人家族の状態でした。

 故人は幼少期から「ジェットパイロットになる。」が将来の夢で高校生になっても変わる事はありませんでした。小学生の頃なら兎も角高校生になってもとなると、当家としては絶対にこの夢は諦めて貰うより他有りません。
 パイロットにする為のお金が無いではありません、金は有っても空の世界は全く未知の世界故、そんな危険な世界に家族を出す訳には行きません。
 当時後の市長になる方がお向かいに、その2件裏には当時の町長が住んでおり、どちらの奥方と仲が良いひいお婆ちゃんは堅実な「町役場」に就職させるべくお願いしまして昭和31年に採用して頂きました。

 然し嫌で嫌で毎日がクサクサだったそうで、昭和32年に奇策を思い付きます。「航空自衛隊に入隊する」事です。今はこの道は閉ざされましたが(前回UPした「そこは青い空だった」にあるが飛行機事故が多発したので)一番金が掛からず、高卒者でもジェット旅客機パイロットになる近道がこのルートでした。

 さて夢の為には難関のひいお婆ちゃんをどう説得するか?まして役場に就職させてくれたので、大変です。そこで・・・「俺、自衛隊に入隊したい。3月で役場辞めさせてほしい。」と云いました。

 お袋もそうでしたが役場に就職するまでは「兄ちゃん、パイロットにはならないで!」と訴えていたので家族は皆「陸上自衛隊」に入隊と思っていたし、今もですが東根市神町に駐屯地があり自転車で十分自宅より通勤可能なので、「役場辞めるのは仕方ないね」でした。

 家族皆神町駐屯地に就職と思っていたら・・・採用通知書には「航空自衛隊」とありドエライ事になりました。
 それこそ近所からテレビを当家に見に来ていた人々が我が家の恐ろしい殺気にビビッて帰る状態だったそうです。特にひいお婆ちゃんは叔母の話では小さかったので何を怒っているかは判らなかったが

 「箒を振り回して兄ちゃんを怒鳴って追い出していた」と証言しています。想像はもう容易につきますね。お袋も当時7歳ほどでしたが、裏切られた気持ちでいっぱいだったそうです。

 あとこれはお袋、叔母の話ですが、昭和33年の夏に自衛隊のヘリコプターに手を振ると1機が当家のギリギリの所に下降したと記憶しており、この方ではないかと思われます。

 その後は音信不通で昭和38年の末になると(丁度トヨペットクラウンデラックスが我が家にやって来て半年の頃)「俺、結婚して子供が授かった、来年の東京五輪では国立競技場の上を飛ぶ候補になった、40年には日本航空にジェットパイロットに採用される予定だ。」と連絡があり、「それでは春に会おう、勘当は解いてやるので頑張れ」となりました。

 39年は我が家も忙しく5月になりました。そうして運命の5/19AM10:20頃松島基地を飛び立ったF86戦闘機は不具合がありそれが原因で岩手県宮古市の市議会議員(当時54歳)が所有する山へ墜落炎上し機体から遺体が見つかり殉職しました(享年26)

 当家に連絡が付いたのはその日の午後で、夕方にはあのクラウンで関山経由(当時はそれ以外ルートなし)で松島へ向かいました。(これは山形新聞にあります)

 最近お袋に聞くと「恐れていた事が本当になってしまった!」でした。お袋、叔母は昨年亡くなった大叔父とバスに乗って後を追いかけたそうです。

松島基地から当家へ(リニューアルその2)

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 我が家にお袋の従兄が事故死した報告が届いたのが14時頃らしく、やはりと云うかひいお婆ちゃんは茫然として、そのまま倒れこんだらしいです。
 パイロットの弟2人は次男は既に県外の大きな会社に大卒の新人社員で入社しいませんでしたが、ひとまずはそちらにも電話したそうです。そして三男は山形大学の2年生でこの日はタマタマ休講で当家にいたそうです。お爺ちゃんが務めていた山形駅にも連絡が入り、大慌てでタクシーで帰宅し、ひいお婆ちゃんも落ち着き出したし、家族が皆揃った所で、私の車にはお爺ちゃんが運転して、ひいお爺ちゃんお婆ちゃん、そして三男が乗り、お婆ちゃん、お袋、叔母そして大叔父は大叔父が付き添いで山交バスで仙台に向かいひとまずは松島基地に向かったそうです。
 冷静に行動できる様になったのが夕方なので、動き出したのが夕方で、松島ではホテルに一泊する事となったそうでした。
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 何度か出ていますが、ここは東根市悪戸の上と下の交差部分ですが絶対にここを走ったでしょう。今の様な舗装路ではなく、砂利道でした。
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 杉の葉がこんなに当時はないだろうけど、これが標準です。この細い道でお爺ちゃんはどういう思いでハンドルを握った事やら?
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 かつらざわ橋。もうすぐ関山隧道ですが、ひいお婆ちゃんはかなり取り乱したらしいです。本当に死んだのか?嘘であって欲しいと。
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 借り物で、宮城県側の路面。一番の関門である宮城県側を出て直ぐの「魔の直角カーブ」は過ぎて比較的安全な場所です。
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 宮城県側の先程の道から見た現道です。恐ろしく高い所にあるのです。こういう急こう配を走るのですから、相当エンジンに負担が掛かる訳です。
 こんな所でオーバードライブをONにしたら、一気に崖下にダイブし一家全員死亡となります。それにトヨペットクラウンデラックスのオーバードライブはONのままだとたとえ時速50キロ未満であってもエンジンブレーキは効きません。キックダウンswを効かせればアクセルを踏むから余計マズイ状況に陥ります。

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 昭和41年の事故の慰霊碑ですが、ここも危険な関門です。
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 この橋。ここが曲者で、結構左に寄っています。山形から来た時ハンドルを切りそこなえば即転落。更にここに鈍重なトラックが居れば、頂上までローで登る羽目になります。こういう時セドリックの1963年式までのモデルがもってこいの車です。何分こちらのローギヤはトラックと同じ構造ですから馬力が違います。

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旧道の遺構が今も残ります。手前が橋げたで、奥が当時の石垣です。この作りは戦前に多く見られましたので、間違いなく私のクラウンもここを走りました。

*難路関山を走りR45を目指し走るRS41です。

パブリカUP20C

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 すっかりご無沙汰になったイベントリポートですが、
 今回はイベントではよく目にするけど、よ~く見ると珍しい個体です。

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 ここから見る分には普通のパブリカ。
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 綺麗な個体だナァ程度ですが
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 リヤもそう変わりません。
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 なんちゃってトヨグライドか??
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 寒冷地OPTのライトカバー。前に出していますが、ナンバーフレームも見事なOPTです。
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 判りにくいですが、本当にトヨグライドです。実は実物のパブリカのトヨグライドはこれが初めて見る個体です。
 結構このイベントトヨグライドが多いナァ。
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 私の記憶ではこんな内装はなかったと思いますが・・・
 如何にも70年代らしいデザインでこれはこれで良し。
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 わずかに開いた窓より、でもカメラが老眼だからダメです。


松島基地から当家へ(リニューアルその3)

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 お爺ちゃんが運転免許を取得したのは、大分前からバイクの免許があり、(自動二輪でしょうかね?或いは軽免許?)昭和37年になり運転免許センターが新築されたし、普通運転免許が市内在住者優遇措置?が展開されて悪戯半分で取得したと云うのが実際の所らしいです。私のトヨペットクラウンデラックスの前はスーパーカブが有ったのは確かでこれは物心がついた時には我が家には無くなっていましたが、RS41購入後もどの位かの期間おいてあり、そちらに乗る事が多かったそうです。
 タマタマ引き取ったこのクラウンですが、仙台方面は余り経験ない運転だったそうですから、大変な運転であったかも知れません。
 この頃は同時取得の大叔父が良く運転したそうですが、お袋と叔母の付き添いが必要なので、バスで初めは追いかけました。(仙台駅から松島基地までが特に付き添いが必要、迷子になるから)但し帰りは大叔父がクラウンを運転してくれたそうです。
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 何はともあれ、松島まで走らせないとなりません。当時仙台地方は曇り、(宮古市は濃霧)関山も曇りだったでしょう。
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 現地の市議会議員が所有する山に墜落しましたが、幸い「放置して単に持っているだけの場所」との事で被害はなしとの事でした。
 大変有り難い事にこの土地に慰霊碑を建ててくれるとなり、市役所(昭和33年以降)で職員が募金に協力してくれてその費用を市議会議員に渡したそうです。
 う~う~。皆さん有難うございます。我が家もそれ相応の募金を出しました。
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 墜落炎上ですから大変な消火活動に機体回収作業であったと思います。幸い墜落した機体にお袋の従兄の遺体があったとの事でバラバラにならなかった事だけでも良かったと思います。
 お爺ちゃんに聞いた話では、焼けていたとの事で包帯をかなり厚く巻いた状態で対面したそうで、顔等は全然判る物ではなかったそうです。
 流石にひいお婆ちゃんには対面させなかったそうで、お袋や叔母とホテル待機していたそうです。(勿論ひいお爺ちゃんも)又当家のしきたりもあり、逆縁は親に対面させない方針ですので。
 他、パイロットの妻、大叔父、兄弟が対面しました。
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 結構燃えました。
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 松島基地内部です。山形の風習に合わせてくれて、20日の午後には火葬しました。上司、同僚、部下との最期のお別れですね。(山形のしきたりは遺体を火葬してから葬儀が一般的で、仏がある状態では原則として葬儀はしない風習があります。これはすべての宗教や宗派問わず共通の風習です=骨葬です。なお今の時代葬儀屋に依頼した場合でも火葬後でないと、幾ら故人の希望としても、進行はしてくれません。)
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 基地の内部です。これは5/19とは全く関係がありません。時代は昭和39年の中であろうが、一般公開した時のショットであろうと思います。
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 飛行機は全然判らないですが、こんな写真もありました。なんだろ~?
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 流石松島基地です。外車がウヨウヨ。この中の外車も当家まで駆けつけております。
 昭和39年当時クラウン走っただけでも顰蹙に近い時代でしたが、物凄い台数が来たので、急遽自宅裏の高校の校長に掛け合い校庭を借りて「高村家」駐車場にしました。お茶出しも近所の婆さん方を総動員でやり(無論皆明治生まれの婆さん)何とかさばいたそうです。

 でも、それだけの外車やバスがあの細い道を隊列なしてやって来る姿を想像すると何とも云えない気分になります。


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