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松島基地から当家へ(リニューアルその4)

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 さて数年振りにお袋の従兄は我が家に帰って来ました。最近これまでR48だった仙台は八鍬のルートは今年県道に降格しましたが、そこを通って定義(じょうげ)ルートでした。
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 これが事故を起こしたF86の同型だそうです。(詳しくは判りません)
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 航空自衛隊員皆で送ります。
 よ~くマスターラインRS36Ⅴの右リヤを見ると遺骨を抱いている姿が判る筈です。これがお爺ちゃんで故人の伯父です。トヨペットクラウンデラックスはこの時は大叔父にバトンタッチで基地を出てからマスターラインの後をついて行きます。
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 空想の域ですが何となく帰りの方が運転は楽だとは思います。でも3速ではここは登れず2速を酷使してエンジンを相当吹かしてやっとだったのではないでしょうか?
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 この様に斜めなのかは判りかねますが、当時はガードレールもなく怖いでしょうね。
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 宮城県側の坑門です。漸く3速かな?

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 大叔父が運転して、ひいお爺ちゃん、お婆ちゃんが乗っております。「ばんちゃ、これ以上泣いても○○はもう帰って来ない」とでも話していたかな?
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 昭和47年の冬の話ですが雪女の話です。この頃私はお袋の腹の中でピコピコ動いていたはず。



松島基地から当家へ(リニューアルその5)

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 関山隧道を通過し、永晶橋を通過しました。この橋は今も旧道に遺っていますが、近付くには方向転換場所から50mバックなので、運転が大変なので撮影はありません。ですから「かつらざわ橋」が代表です。
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 ここは東根市大瀧です。永晶橋は昭和12年に対しこちらは26年で共にコンクリート橋。
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 山形方面を向いています。こんな具合に走ったでしょう。
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 この細い道を当時余り走らない乗用車がたくさん走りました。悪戸の住民は「何事だ!」と思ったでしょう。
 でも自衛隊機墜落事故である割には結構事細かに各新聞社が報道していました。我が家の様子とかパイロットのおいたちまで・・・・ですから「あ~、あのパイロットさんかい?」かも知れません。

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 悪戸の次は沼沢に入ります。ここ1か月程で鬱蒼と茂っていた杉の木がかなり切られました。フツ―の能動と化してきました。
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 黒い着物の老女がひいお婆ちゃんで「ばんちゃ」です。昭和47年満年齢80歳で亡くなります。
 トヨペットクラウンデラックスの車内ではずっと泣いていたそうです。撮影時は72歳でした。
 普段車に対しては怪訝な顔でした。「こんな車とんでもないよ!クーラーなんて奴は体を悪くするさ!」と云う具合に。因習懐古の典型だったそうで、新しい事やモノには関心がありませんでした。
 この頃から体調を崩すようになり入退院を繰り返しました。バックは当時の当家です。
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 当家が近い所に自衛隊のマスターラインがやってきました。真ん中やや左よりに「文」とありますが、これは県立高校があったのでそういう看板がありました。

松島基地から当家へ(リニューアルその6)

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 我が家に間もなく着こうとしていますが、マスターラインの後にトヨペットクラウンデラックスが走り、その後にタクシーが走った事が判りました。
 これ等の写真は昨年出て来まして、お袋に確認を取ったら多分これに乗って来たかな?と聞きました。
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 植木等さんに似た大叔父が運転します。
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 これです、これプリンスグロリアスペシャルですがお袋の他叔母、パイロットの兄弟が乗ったかも知れないそうです。
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 一応前から右がお袋、左が叔母、後ろの左と中央が兄弟です。
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 こちらがパイロットの子供と奥さんの兄弟みたいです。はっきりは今は判らなくなりました。赤ちゃんはパイロットの子供なのは確かです。タクシーはブルーバード410ですね。
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 間違いなく当家近くの風景ですね。
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 家族や親族でまずは打ち合わせ。左側の頭がツルリンの老人がひいお爺ちゃん(当時78歳、平成2年104歳で没)です。ばんちゃの慰め「御苦労さん」でした。

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 一旦は我が家で祀って自宅参りは我が家で行います。町内の婆さん方の力も必要ですし。

*葬儀は出身地のお寺で行いまして、遺骨もそちらのお寺に埋葬しました。なおパイロットはその後週刊女性に掲載があり、生い立ちと奥さんとの馴れ初め等が書かれたそうです。(多分64年6月号かな?)
 結構美人なホステスさんとの事で余計週刊誌の興味を引いたそうですが、ひいお婆ちゃんが嫌がったのはそこにあったみたいで、孫を取られた気持ちが強かったそうです。

棚作り

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 自宅前の畑、葡萄園について動きがありました。その様子をUP致します。
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 ネギはこの様になりましたが、当初は右手前の2本分はなかったのですが、プリンスメロン対応で増えて今の姿になりました。
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 今ブログ以外で参加している掲示板にて胡瓜やメロン等はネギと混植すると病気予防になると聞いて植えたのです。書いた方は九条ネギを植えたそうですが、昨年私は見事に失敗したので安くて病気に強いこちらにしました。
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 プリンスメロンの苗です。

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 右が胡瓜で左の小さい物がプリンスメロンです。吊り栽培を行います。

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 3月末に作った生ごみ肥料を葡萄に施肥しました。
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 いやいや、あの時殆どが肥料化しておらずどうなるか??でしたが、今度は見事に肥料化していました。
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 コンポストの設置跡で作りましてしばらくここに草を積み上げて新たな肥料でも。


武左ゑ門さんこれ如何?

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 一昨日の話ですが、主治医から連絡があり
 「箱はアンマリボロボロで捨てたけど、高村クンから
 預かったホイールシリンダーが出て来た、確認してほしい。」とありました。

 ただ預けたのが7~8年前で預けた記憶がはっきりしませんが、ホイールシリンダーの新品をOHしてほしい。」と云って預けたらしく、固着が酷くて一旦は諦めたが、つい数日前工具箱から「コロリ」出てきて油漬け等やったら固着が取れて全てバラしたらカップ類は流石に再使用は厳しい様子だが内部は綺麗で今後の交換部品としては十分使えるので私の見立てでは探されている「右」なので、もしOKならばエクスパック510円プラスで下の画像見てメールに希望価格書いていただければお譲り致します。お返事はこちらの返信でもいいし、私のパソコンメールでもOKです。
 
 記憶では多分気仙沼か秋田で仕入れた記憶が蘇りました。4500円だったかな?と記憶しています。

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 写真右がMS50系の左です。ここから比べてどうも右っぽいのです。
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 裏より。
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 写真左がRS40系用の右です。
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 万力などを使い固着を取ったので、傷は多いけど、豚の爪みたいな部品は今も出るOHキットにあるから良いでしょう。
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本日の農作業

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  5/8 ストロビー1000倍果樹に散布。
 5/9 スミチオン1000倍果樹に散布。
     同時に葡萄園の玉葱に追肥(化学肥料と配合
    肥料)

 葡萄園裏の空き家に新住人が引っ越す事になり、畑に行くと建築屋さんが空き家を修理しており、荒れ放題の花壇もとても綺麗に整備され、私も雑草に注意せねばとなりました。ナイヤガラのつるが隣家に行かない様に注意しなければなりませんね。

 次回はもっと綺麗に草刈りをします。

  
 
 

ブルーバード

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 ライトバンでしょうか?ステーションワゴンでしょうか?
 実はP410系の頃は特に売れ筋のライトバンは320系も併売され意外や目にしません。
 ただでさえ珍しい410系のワゴンかライトバンですから大物ですね!
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 場所はもう忘れましたが、偶然発見したものです。管理人さんが遠くを見てくれて「ハコスカ」らしい個体を発見し近付こうとした時その過程で発見したのです。
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 ずいぶん半端な事するナァ!タイヤの再利用。
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 通称「逆ぞりグリル」ですので1回目のマイナーチェンジの後のモデルで昭和40年前後でしょう。
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 シートがここまでボロボロだと・・・ビニールレザーの可能性が低いな、て、事はステーションワゴンか?
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 リヤより、青系ガラスなので多分・・・
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 テールは初期型を示します。
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 リヤガラスに保護棒がないので恐らくステーションワゴンでしょうね。
 それにしても、一升瓶がやたら多い、結構酒好きか?
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 タイヤは5.60-13の4㏚であったので、ワゴンであると断定しました。当時は今以上タイヤの㏚数には煩くライトバンとは到底考えられません。


マツダR360クーペ

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 昭和41年式のマツダR360クーペ。ここ最近東北のイベントでも見る様になりました。15~20年ほど前だとまずこちらでは見ませんでしたよ。
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 「クーペでいこう」ガキャッチフレーズです。
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 中々綺麗な個体です。
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 エンジンが開いていたので見ますと
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 良く整備された個体です。キャブの窓が四角形なのが良い。
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 見づらいですが、やはりこのガラスも合わせガラスで、「G4」が付きます。1964年式用ですが車は昭和41年式なので大量生産で余ったのかな?でも年式より新しいガラスではないので、破損の可能性は低いです。
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 BSのスカイウェイホワイトリボン。結構4.80-10サイズのこのタイヤはイベントで多数見ます。
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 実はこの個体トルコン車両なのです。いやいや、このイベント結構AT旧車見ますね!これだけ多く見る事は私は今までありませんでした。
 外車中心で国産旧車は少数派でしたが凄い!


ハコスカライトバンデラックス

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 管理人さんが遠くから発見した個体です。前回紹介のブルーバードワゴンはおまけです。
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 定期点検や車検ステッカーは既にないですが痕跡が昭和52年以前の定期点検ステッカーの痕跡がありましたので、40年近い年月をここで過ごしているのは確か。
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 右テールレンズが最近まであったのか?いたましいですね。
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 デラックスのエンブレム。
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 G15エンジンを覗く事が出来ます。プリンスの純血エンジンですので、早い時期にエンジンの製造打ち切りがありました。
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 ヘッドレストは後年の物を加工して取り付けた様です。差し込み式は時々見ますが、ここまでの改造は初めて見ましたが、こうでもしないとヘッドレストの意味がありません。中々安全に気を配っていますが、シートベルトがないな!
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 初期型のライトベゼル、これ貴重なんです。
 ライト球は新車時のスタンレーらしく、珍しいです。
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 前回載せ忘れた写真でブルーバード。

日産ディズの流用部品?

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 ディズにはワゴンRの14インチホイールが流用できる事が判りました。
 1本1000円と中古は格安ですので新品を買う事は私はありません。然もこれ1シーズンだけしか使わない極上中古です。
 何でも初めは夏タイヤはアルミ、冬はこのホイールだったが、冬もアルミにしたいとなった方が居り、処分してほしいとなり引き取りました。
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 平成26年式の車両用です。これがディズと共通部品だそうです。

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 こんな感じです。

 実はこれで終わりの味気ない記事だったので、本来は何か付け足してからと考えていましたが、昨日日産の傘下に三菱が入る事になったと云う報道がトップニュースになりまして、私が真っ先に思い付いたのが日産とプリンスの合併です。更に少し前ジャイアントやコニーの製造を手掛けた愛知機械工業を傘下に収めています。
 
 この時の社長が

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 この人川又克二氏。(明治38年~昭和61年、日本興業銀行出身)

 愛知機械工業も経営不振で日産の傘下に入るが、その時愛知機械側の社長がタマタマ川又氏の出身銀行の後輩とあり、彼を救うのが目的でその後は経営を立て直した実績があり、川又氏としてはプリンス自動車の技術力を知っており、合併には前向きでした。

 プリンス自動車は実は株式上場企業ではなく、経営実態が不明でした。当初通産省はトヨタに合併打診したが、当時の中川不器男(なかがわ ふきお:三井銀行出身)社長は中川軍団員を派遣してプリンスの経営実態を調査しており、この時の結果は甚大な大赤字企業でした。

 プリンス自動車の社長(小川秀彦氏、住友銀行出身)も例外なく銀行出身の社長ですから、外見上では赤字がない企業に見せるのは「お茶の子さいさい」

 所が川又氏は昭和22年、42歳で日産に入社し中川社長の様な川又軍団が出来なかったのか判りませんが、甚大な赤字には気づけず合併の調印をしてから、当時の国家予算に匹敵する大赤字に気づいたそうです。

 プリンスの合併背景は私はある説が間違いないとみていますが、必要あればUP予定です。(コメントに必要とあらば時間ある時UPします)

 さて書きたかった事は丁度来る8/1でプリンス合併満50年で、丁度この節目での三菱を傘下に収めた時期ですから、川又元社長の様な大火傷をしないか?です。

 傘下に収めたのは良いけど、半端でない不祥事、不正まみれで最終的に日産の経営を引っ張る結果になる、一応ゴーン社長はすべての過去の悪事は三菱が責任を負ってからとは話すが、果たして・・・・・。

 川又氏は昭和50年に日産を退社しますが、プリンス合併以降は散々な目に遭っています。

 


プリンス自動車が日産に合併された背景

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 昭和41年8月1日にプリンス自動車工業と自動車販売の2社は正式に日産自動車に合併されました。
 実は昭和40年5月には日産と合併覚書を交わしており、物凄い大騒ぎになりました。

 そもそもこのプリンス自動車は「たま電気自動車」をルーツにする会社で昭和22年設立され当時から会長は大手タイヤ会社ブリヂストンの石橋氏が会長を務めました。日産に合併されるまで石橋氏はプリンス自動車の会長を務めます(社長は小川秀彦氏)

 さてプリンス自動車がどんな車を発売し何年何月に等はここでは省略しますが合併の背景として私の中ではまず間違いないと思える1説がありこれをUP致します。
 
 プリンス自動車の体質は中島飛行機時代に見られる性能重視主義で時代を先取りし過ぎて客のニーズに余り応えていない所があり、赤字体質でした。トヨタと同様工業と販売の2社体制で、トヨタと似た製品づくりを私は感じてはいますが、これも後に書きますが合併をトヨタは拒否しています。

 そんな慢性的な赤字企業ですが、ある種社運を賭けた車がありました。ここは正しい説がはっきりしない所がありますが、私はこちらが正しいと思います。
 「2代目プリンスグロリア(S40D)は石橋会長を驚かせる為に会長に極秘で作った!」
 が正しいと思います。すると石橋会長は「こんな車は売れるはずない!」と云い、ガッカリしたそうです。発売はトヨタの2代目と同じ昭和37年10月2日ですからこれを石橋氏に見せたのが昭和37年の4月頃。もはや今からやり直しは出来ない時期です。そこであの絢爛豪華な鍍金や内装で誤魔化すのが精一杯でした。

 こう書くと次からの合併話はスムーズになるのです。石橋氏はこの頃から自分が手掛けたプリンス自動車に対し情熱が徐々に無くなって来たのです。
 折しも当時は昭和36年10月には二輪車とトラックは自動車の貿易自由化が始まり、40年10月には乗用車が貿易自由化が始まろうとしていました。
 当時の旧通産省は自動車メーカーの再編を考えており、当時の通産大臣桜内氏より石橋会長は「プリンス自動車は手放す様に。」と忠告を受けます。
 これはある種桜内氏も命がけで石橋会長に忠告したのです。又同時に石橋氏はプリンス自動車には会長すら知らない最低50億から100億円と云う当時の国家予算に匹敵する赤字を桜内氏に知らされ大いに驚いたそうです。S40グロリアの失敗と大赤字更には国家要請もあり徐々にプリンス自動車に距離を置きました。

 現場社員の回顧録では「日産に合併されるまでは赤字企業であったとは思わなかった。何故合併に至ったのか判らない。」と答える者、「S40の在庫の山がアッ!と云う間に出来てしまい、もうダメだろう。」と答える者と別れていました。
 つまり前者は工業の社員後者は販売の社員と判りました。=工業の経営方法は売れる売れない関係なくまずは販売に買い取って貰う。と云う経営方法で売れない物をドンドン作るから赤字が作れば作る程膨らんで行くのです。

 更にプリンスは変な事業に手を出しました。宇宙開発で、糸川博士が率いるペンシルロケットに手を出しました。これがより赤字に拍車を掛けました。これは日産も合併により引き受け後に大いに苦しむ事となります。

 もはや自立再建は出来ないプリンス自動車ですが、当時上場企業ではなく未公開企業ですから内部体質は判りません。プリンス自動車工業だけ見れば黒字で販売の事は隠してありました。
 当然乍、通産省はトヨタに合併打診を行いますが、前回書いた通り中川社長の軍団員によりプリンスの中身は洗われており、中川社長は即答で「ノー!」マツダに打診したが「マツダより大きい会社であるなら応じるが小さい会社には応じない」の姿勢でした。

 うまい具合にこの話に食いついたのが日産でした。川又社長はこの時「日産の技術力をもってトヨタの規模を抜こう!」でした。又日産は高級車を作るメーカーとして川又氏は認識しており、乗用車のノウハウを日産に取り入れればトヨタを抜けると考えたみたいです。

 この時点で愛知機械工業を傘下に収めて経営に成功しており、プリンスを合併して規模拡大を考えたので、質より量を川又氏は選んだのです。

 結果はもうお判りでしょう。ですから今回三菱を傘下に入れた事で川又氏が経験した大火傷を負うのではとふと思ったのです。何れにせよ三菱の倒産はこれにより回避されました。

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 これが問題の2代目グロリア。当初はデラックスのみの販売で先代のBLSIと同じ販売方法でした。
 私は2代目クラウンと比べて甲乙付け難い程好きな車ですが、公用車需要、タクシー需要には向かない作りでした。G7エンジン搭載のスーパー6は昭和38年6月20日が発売で、同年9月以降のデラックスはレギュラーガソリン仕様にしてモールや内装を簡素化し、従来の1型の作りはスーパー6に引き継がれました。


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実は昭和38年5月の第一回日本GPの時ブリヂストンはトヨタにレース用タイヤは供給しなかったが第二回の時はトヨタに供給しております。恐らくもう完全にプリンスを見切ったと考えられます。この時当時のプリンスレーシングの関係者は大いに驚きましたが、石橋氏の力ではもうどうにも出来ないと見込んだと考えています。

野菜苗の定植

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 撮影は5/7ですが、この日に野菜苗を定植しました。
 プリンスメロンについては5/5に実施しています。
 毎回ですが地元の苗種屋さんが店頭販売した日が野菜苗定植すると間違いありません。
 皆さん方も古くからある苗種屋さんの店頭販売を参考に農作業するとまず間違いありません。
 又結果的に苗も間違いないので、苗選びの時間短縮にも繋がりますから、利用しない手はありません。
 
 但し店にない物はHCとなりますが、その際は茎が太く「ズングリムックリ」な苗が間違いないです。
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 胡瓜です。
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 プリンスメロン。裏にネギを定植。
 これは参加している掲示板にこうすると胡瓜の病害虫対策になるとあり、特に弱い同じウリ科のプリンスメロンで実験。
 掲示板では九条ネギでやるそうですが、昨年見事に失敗し溶けたので簡単な安い普通のネギにしました。
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 玉葱。順調ですが実がまだゴルフボール程度かな?貸農園の栽培では余り勧められない作物です。何分秋に植えて6月末とかが収穫ですから、万が一4月更新の方で抽選で選らばれるケースなら先ずダメですね。
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ナス。
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 ネギ。先程のプリンスメロンと同じネギですが、こちらは普通に栽培しています。
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 トマトが手前で、その奥が枝豆。白い網をしているのは鳥に豆を食われるからです。葡萄園の方は大丈夫ですが、こちらは一昨年廃業した製麺会社の蔵に巣食っていた鳩の残党が居るのでやられます。

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 これはおまけで、葡萄園の写真ですが、緑肥風景です。草を積んで米糠と牛糞を混ぜて腐らせ肥やしになればクラウンの周りにすき込んで人参を一部植えようかナァ?

トランククーラーの操作

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 エバポレーターのアイシング防止操作を身に着けました。取扱説明書にないやり方も必要です。
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あ~らら、また「HI」が消えちゃった(爆笑)
基本私は「MED」以上は使いません。(余程暑いとHIにします) 
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 アイシング防止に一番ベストはこの位置。でもまだ暑い場合はその次まではどうにかアイシングしないで使えます。
 なお白いペイントが変色したので示す時は赤い棒で示します。(SWの前オーナーも喫煙者だろうね。今私のフFANノブは非喫煙車からの移植なので綺麗です)
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 幾らFANを「HI」にしても赤い棒で指した所は極力使わない事!その次は以ての外(食用菊じゃないよ(笑))確実に壊れます。
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 見た目がとても涼し気で良いです。ザ・昭和!ですね。
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 冷蔵庫としても使えます。本日も精肉をスーパーで買って中に入れましたが結構冷えていました。アンマリ長くやるとチルドになりかねません(汗)
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 誇らしげなエンブレムです。
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 それと今後の写真や寒河江のイベントに対応してホワイトリボンに履き替えました。前は新品のTOYOで後ろは右がBS左がヨコハマです。
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 BSスカイウェイです。リボンが細いので昭和45年以降でしょう。


シングルナンバー

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 シングルナンバー付きはダットサンサニークーペとVWだけでした。宮3は知人のハネベンがありますが、今回は不参加です。
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 昭和44年式です。20年以上前から結構仙台、気仙沼、以前あった迫町のイベントで度々見ました。
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 写真の写りの関係ではなく、本当に宮と5の間がやたら広く不思議な個体です。再発行か??
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 これはVWですが自然な間隔です。
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リヤは自然な間隔ですね。やはり再発行かな?
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 VWのリヤ。
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 封緘は一度やり直したかな?宮城県は封緘の周りが赤に染められていました。
 再塗装の時封緘を切って再封緘は正道です。下手に剥がして封緘すると疑いたくなります。
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 こちらは赤い塗料が若干残っています。これが本来です。こちらは未再生なので弄った跡がありません。

ハコスカライトバン

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 第2弾です。
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 この位朽ちていると40年は裕にここに置かれているでしょう。
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 単にドアを半端にしてこうなったのでしょうか?私の葡萄園にあるクラウンも左前が閉まらなくなり、何とかなる今のうちロック掛けて閉めました。
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 バンパーを見るとフォグランプが以前あった痕跡があります。
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 やはり昭和52年以前の定期点検ステッカーの痕跡があり40年はここにいると断言できますね。
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 コラムシフトの車両です。でもベンチシートではないです。この時代はベンチシートが廃れ始めたのかな?

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 オーナー曰く、「あんたら、不法投棄車両を撮影に来たのかい?」でした。いえいえ、趣味でやっています。
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 余り物置としては使った形跡無く、廃車をそのまま置いただけなのかな?


サニーB10セダン

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 少し前のイベントでは当たり前に目にしたB10ですが、今では中々目にしなくなりました。
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 昨年から今年にかけてオールペイントしたB10.オーナーは私よりずっと若い23歳の方です。
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 カーバッチ辺りが主治医の影響を受けています。
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 色々ポスターを掲示していますね。
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 リヤガラスの青ラメもやはり主治医の影響です。
 この時代結構はやりまして、我家のカローラもそれがありましたが、見えにくいんですよね、当時カローラは玄関前のカーポートが車庫で、私がヨチヨチ歩きして恐らく見えなくて轢きそうになり外したと思います。
 何分私が今のピンク怪獣位までの頃の話ですから。

 マフラーカッターはムーン、バンパー下のひも?も70年代を思わせられます。
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 記憶が誤っていないならば、確か主治医のサニーのフロアーシフトを元のコラムシフトに交換する際、不要になったこちらを移植したのかも知れません。
 何かそんな話を聞いた記憶が・・・・
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 ドアバイザー4枚揃えるも中々難しいんですよ、良くできました!

ホワイトリボンタイヤに変えて

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 あちこち走りました。
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 見栄えの比較です。確かに見栄えは大きく向上しました。遠くへの参加イベントにはこの姿は披露出来ませんので、せいぜい6/5の寒河江のイベントだけです。
 山形県寒河江市のJR寒河江駅前で行われますので、見たい方は是非お越しください。
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 リヤは左がヨコハマ右はBSです。何れも細いリボンなので、昭和44年~46年製造でしょうね。(或いは48年まで)
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 フロントはTOYOでこちらは新品です。
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 トランククーラーを効かせて山形市内の美味しいケーキ屋さんに参上しました。その前は隣町のスーパーに行ったのでその帰りつい食べたくなり寄ったのです。
 売りはシュークリームで、あらかじめクリームが詰めてあるのではなく、注文後直ぐなので美味しさが違います。
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メーターが7のぞろ目です!途中でなりました!

普段ならスルー物件なんですが

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 2度に渡りUP予定です。
 4月初め頃UPしたトヨタ初FFのコルサ。タマタマ通りかかった4月下旬、遂に撤去となりました。然しどう引き上げたのか、車輪を引きづった痕跡がなく恐らく、重機で強引に引き上げたのでしょう。

 それと草ヒロ探検隊の管理人さんに聞いた話では意外やこの年代の「半端に古い」モデルの部品枯渇は深刻で部品に困って「この個体はどこにあるのか?」の問い合わせが時々あるそうです。(基本応じていないそうです)外車だと丸ごと引き上げてレストアしたいと云う狂気の沙汰の様な話がある事も付け加えます。

 私も長年イベント見ていますが、この年代の旧車部品は先ず見た事なくあっても1件のスワップミートがいい所です。ですから残存率はグッと減るのでしょう。

 恐らく2000年以降の車が旧車になった時はライト一つで半端でない苦労が予想されますから、この年代のマニアの奮闘が楽しみであります!
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 4月初め頃かな?旧R48から発見したコルサ。この時点では絶対引き上げは不能だ!このまま朽ちるだろうと思ってロクに撮影せず、スルーしました。

 が!・・・・・
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 アレレ??何てこった?どうやって引き上げたのか?
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 強引に右側を鷲掴みして引き上げたのでしょうね。
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 こちら側は無傷と考えると間違いないけど、どうやってあんな狭い所に重機を入れたのか?
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リヤより。先ず間違いなく旧道に何とか重機を入れて引き上げたな。
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 ありゃりゃ?鍵が付いてら!多分マダマダ走れる状態で廃車になったでしょう。
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 以前撮影した時鬱蒼としていた旧道ですが、大分伐採が進みました。
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 旧R48沿いの解体屋、ここにどう見ても元草ヒロ上がりがあるので他にも沢山あったのでしょうね。

中古車としては

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 当時不人気車種で、長期在庫車両となる厄介な車であったと「失敗しない中古車選び」と云う著書を書いた方が当時振り返っていました。
 兄弟車種のターセルもそんな1台でした。著者は「困った事にこういう車を仕入れるから販売としては非常に困る!」でした。
 こういう車は当時は飾りたてを派手にして格安車として販売してそれでも売れないと大きな営業所がある所は各所を転々として業界用語では「渡り鳥」
 と呼ばれそんな車が本当に1年近くして元の古巣に戻り数か月残れば解体屋へ送られるそうです。

 この車ではないけど、30年以上前私が出入りしていた解体屋に初代チェリーのからし色が入庫して来た事を思い出します。結構派手に売れる様に張り紙が施され、その1か月前は日産の中古車ランドで見ており、当時3万円でしたね。他にもB210のクーペとかダイハツのシャルーマン何て物もありましたね。
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 エンブレムも誇らしげに残っていました。
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 定期点検や車検ステッカーは判読不能でしたが、何となく直感で平成元年が最期みたいでした(昭和60年ではなさそう)
 パブナナバンさんより前期型の鑑定頂き、恐らくは昭和54年式と見ました。10年ともなると当時は次の1年車検が嫌で廃車にする事例が非常に多いので。
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 記憶では昭和60年頃コルサは解体屋では幾ら不人気でも先ず見ませんでした。昭和62年頃からボチボチ見ましたね。
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 後で書きますがタイヤで回転したのが左リヤのみ。
 これはセルフローダーの上で引きずった時固着が無くて回ったのでしょうね。事実他の3輪はタイヤが外れ固着している事が判ります。
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 スパイクタイヤが当時を偲ばせます。スパイクがこれだけ減るとなるとやはり6年程度では効かない年月を走って居るでしょう。
 やはり平成元年車検切れ&廃車が妥当です。
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 恐らくドアを何とか外して旧道から重機で挟み込んで、引き上げたのでしょうね。
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 前輪に注目。タイヤが外れかけているので強く引きずったのでこうなったのでしょう。又トラックの床板がめくれている所を見るとトラックの上でウィンチでひっぱったのでしょうね。ですから路上では引きずった痕跡がどこにもないのです。
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 ある種これは私も参考になります。
 同じ様な1963年式のクラウンRS41の廃車が畑に有った場合、引き上げが出来ないならば、割れては困るフロントガラスを守る為にもう少し後ろ側に挟み込んでこの車みたいにドアを外して放り込めば良いのです。
 リヤガラスは成り行きで良い訳なので割れたら割れた。他に欲しい部品は外せるなら外して、こう引き上げてガラを解体屋に送ればOKです。

本日の農作業

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 5/21:ストロビー1000倍全作物に散布。
 5/22:スミチオン1000倍全作物に散布。
     トウモロコシ、枝豆の種第2弾を撒く。

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 もってのほか菊も芽吹きました。今年は増やす事に重点置いて弄らず来年株分けします。
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 柿の木根元の藁縄の上に草を積み上げる。縄を肥料化します。他に剪定した枝も入っています。
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 裏のお宅にナイヤガラの枝が入らない様に注意します。今年から新しい住民が入りました。
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 不耕起栽培は止めて、枝豆を撒きました。スギナが次々なので枝豆の種を撒きました。
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 自宅前。枝豆もここまで育てば鳥に食われる事が無くなりますので、寒冷紗を外して隣の畝に種を撒きました。次は6月上旬かな?
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 こんな風に。
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 トウモロコシ第2弾を撒きました。

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