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Channel: 高村円淨のブログ
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お義父さんが一番初めに運転した車は?

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  昨日UPしました、草ヒロのクラウンGS130でふと思い出した事があり、本日写真を拝借してUP致しました。
 
  以前書いたか忘れましたが、私のお義父さん(66歳)は元県庁の幹部職員で、畑にあるクラウンと同型の黒塗りに運転手付きで乗っており、お義父さんと同期のスバル360マニアが居て、その方から昭和40年式のデベソ給油口のスバル360を借りて暫く乗り、其の後日産バイオレット(初代)を新車で購入。そのスバルは今も現存しているが、同期生が亡くなり、今は置賜方面のマニアに昭和41年式の部品取りもろとも引き取って貰いました。タマタマこのモデルも好きですし、色もカタログと同じ車で、スバル360カタログの中では一番いい出来なのでUP致しました。

 因みにこのスバル360マニアは私の近所の方で、クラウンRS41の事も知って居ます。それとスバルは5台程所有し、最終型を1台だけご子息が保管しています。新車同等に仕上げたので此れは手放したくないとなり、所有されて居るとの事でした。
 
 


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この表紙が良いですね。右側のソテツがより良いです。この時代結構流行ったのでしょうね、我が家にもこの樹がありましたが、私が4歳までには枯れて伐採しました。

それと想像ですが、息子が両親に彼女を紹介している所でしょうか?「んむ、この女子なら良いだろう!」とパイプを咥えたお父さんが認めている気がします。
 

因みにお義父さんが運転したモデルはこのタイプのデラックスで、色は同じです。

 
 
 
  
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カタログは昭和40年前期とありますが、丁度年式打刻制度が廃止された直後がデベソ給油口モデルです。昭和39年7月よりこのタイプとなりましたが、個人売買ではそのすぐ前のスバル360と大きく異なるので、写真が無いとトラブルになります。此れについては明日改めてUPして私なりの注意点を纏めます。

因みにお義父さんは昭和48年に運転免許を取得し、初代は5年程で手放します。多分ですが、この頃カミさんが生まれて、ヨチヨチ歩きを始め、後ろが見えなかったと話しているから、危うくカミさんを轢いてしまいそうになったと思います。その後すぐ2代目バイオレットを購入し、初代マーチの昭和63年を経て、2代目、4代目のマーチばかりずっと乗り継いでいます。購入先も41年間同じデーラーで、全てお任せですから、私の様な口うるさい客ではないからいつもウェルカムですね。


1964年式、昭和39年式

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 スバル360に限りませんが、昨日UPした事と良い例が書けるので出しました。題名の通り1964年式、昭和39年式スバル360と個人売買で写真が無しで雑誌などの個人売買で出た時、売主と買主との間でトラブルになりやすく、こういう点に注意して欲しいと考えUP致しました。

 
 
 
私のこれまでのブログを見ると昭和30年代の車の年式の多くが西暦で書いて居ますが、昭和40年ともなると、1965年式と書くケースが外車以外は無くなります。其れには理由が有ります。

 
 
以前も書いて居ますが、「年式打刻制度」が大きく影響しています。この年式打刻制度は昭和23年(1948年)に既に有った事を確認していますが、制度終了は昭和39年7月14日です。その後は「初年度登録年月日」になり、「初年度製造年月日」は無くなり、「年式」が引き継がれ

  私の車の場合初年度登録年月日が「昭和38年ー月」となりました。反面最低でも昭和57年までは「63年ー月」でした。年式打刻は西暦の下2桁ないし1桁が打刻されます。その為「63年」となりました。

 然し64年は1月7日まであり、昭和64年なのか、1964年なのか紛らわしくなり64年ー月だった車は全て「昭和39年ー月」になりました。その為年式打刻時代と廃止時代が混合になりよりトラブルが多くなりました。

 スバル360の場合ですと、それこそ昭和39年一杯で全然違う車が製造されます。1月(昭和38年9月21日~12月28日も含めて)から6月までは混合燃料を使うモデルですがそれ以降は分離給油方式となります。写真を探して外見の違いを解説致します。
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このモデルが1964年式の分離給油方式です。
38年10月よりドアガラスが、これまでの引き戸式からレギュレターハンドル方式に変更になります。
マニアの間ではレギュレター方式も引き戸方式も一色たんにされて、昭和38年式を意味する「サンパチ」と呼ばれて居ます。サンパチの製造期間は昭和37年10月~38年9月20日までに製造された車体になります。


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リヤスタイル。此れが混合給油方式の最大の特徴です。前から見れば最終型と似た様な顔付だけども、後ろはデメキン時代のスタイル。
このスタイルのスバル360を私は愛します。丁度「始祖鳥」の様な進化の途中みたいでしょ?それが良いのです。同様に自分の愛車クラウンRS41の1963年式も64年以降には無い前時代的なノンシンクロ構造ですし、これも進化の途中の様な作りでしょ。そこが私の心を揺さぶるのです。
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此れが昨日UPしたデベソ給油口のスバル360。
昭和39年7月登場で年式打刻制度廃止以降のモデルです。7月~12月までのモデルは当然昭和39年式です。混合給油の39年式のつもりで売買交渉に入るととんだ「背負い投げ」を喰らいます。

混合給油の車体番号の始まりは「4K111-」ですが、分離給油は「K111ー」となりますので、此処を確認すれば昭和39年となろう、1964年となろう不安は有りません。

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此れがデベソ給油口のリヤスタイル。全然違いますよね。モデルはスーパーデラックスです。このモデルは淡いブルーガラスが採用されます。他にラジオやフォグランプが付きます。
左側に注目すると「スバルマチック」=分離給油のステッカーが付くマニアックな個体です。

 
*スバル360同様RS40系クラウンやマスターラインも単に昭和39年式、1964年式だけではどういう車なのか判らないので、車体番号確認はトラブル防止も挙げられます。

肥料づくり

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  生ごみは冬場も当然ながら発生します。無論これ等も重要な資源で、集団収集ごみには出しません。

 私のやり方はクラウンの下回りに詰まった土をすくい出し、生ごみと米糠を混ぜて肥料にします。
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 先ずはフロアー下にスコップを突っ込んで、すくい出します。肥料っ気がない、サラサラした土が出ます。
 

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こんな具合に土を掻き出します。中々良い土です。
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コンポストに生ごみ、米糠、土を入れて発酵させます。

物置として使用中

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  1月25日(ニューイャーミーティング)当日ネタ最後です。
 
 廃車から9年目、物置としての姿がすっかり板に付きました。昨年車内を整理してより効率的に使って居ます。今はトランクに藁を仕舞って居ます。
 意外にも藁は入手が困難でアンマリ目立つ所に山積みすると盗まれる事があるので、トランクは重宝しますよ。

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 クラウンの左側まで米糠を撒きました。

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杭やバケツ、ジョウロ、鳥よけ網を前席へ。

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 リヤシートへは一輪車を仕舞います。元々肥料を積んで居ただけあってかなり汚れました。所がネズミのヤツが肥料を食い荒らすので注意が必要です。
 こんなに汚れてしまい、新車時を知る宮内庁の幹部は驚くかもしれません。
 なお、藁が手に入らない可能性があるので、造園屋さんから藁縄を貰う予定なので、此処に仕舞う予定。
 

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 ミラーは左フェンダーミラーに括り付けます。中の鏡は右と共通なので万が一破損した場合の備え剝ぎ取りました。此方は再使用不可です。(最も現役時代擦った傷がミラーの外側に付いて居ますので。)

菊切手

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 小判切手の後継切手と云う事で明治32年~大正2年まで発売。
時期は不明ですが大正2年までの間に「偽造事件」が発生し、この切手は販売中止となりました。

 菊切手は天皇家の家紋がモデルとなりましたが、主に電信、電話料金を支払う事を主な目的として発行された「高額切手」が明治41年に発売。以前小判切手で紹介したギヨエツがデザインした「神功皇后」をモデルにした5円、10円切手が発行されました。

 尚高額切手については後程UP致します。
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明治32年発売の5厘切手。

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意外に枚数が少ない1銭5厘切手(青)。明治33年発売。


国道48号線全面通行止

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昨年2月15日に引き続き、2月1日の未明に下の地図に示す区間が高さ最大8M、幅5Mの大規模雪崩が発生し通行止めです。

 *続きはあとで。
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R48通行止め(今日解除だが…)

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 2月1日の未明昨年2月15日に引き続きほぼ同じ区間で大規模な雪崩が発生しR48が全面通行止めになりました。通行止めは本日3日14時に解除になりましたが当面片側交互通行となり、
 「作並で積雪が新たに30センチ、関山トンネルで同じく32センチ積もると通行止めとなる予定」です

 今回の様な昨年と同じ場所が大規模雪崩となる事例は本州では極稀で、何故なったのか調査中です。其れと昨年は2月15日から10日間通行止めでしたが、其の後雪崩対策工事をしなかったのか?との質問には

 「雪解け後直ぐに対策工事をしようとして、工事入札会を行ったが、何処からの入札が無く不調に終わり、漸く晩秋になって親父の分家でもあるS建設が入札したが、程なくして降雪期の時だったので十分な工事は出来なかった」との回答でした。
 
 11月に仙台出張に行った時関山廃道付近でS建設が工事している所を見ましたがそれが雪崩対策工事でした。
 

 今回の大規模雪崩からより関山街道の高規格化が求められました。同時に私は以前この書庫で紹介した「小山田新道」のルートを拡幅してもう一本の国道を作るべきと思います。
 
 R48は、私が個人的に好きなルートだけではなく、山形県知事が実際に発言しましたが

 「東北地域の命の路線」なのです。先の東日本大震災ではR48が無かったら山形県のみならず、宮城県の更なる震災犠牲が増えたと云われて居ます。無論山形も更に犠牲者が出たでしょう。R48の強靭化は絶対条件です。



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幅5M、高さ最大8Mの雪崩が発生しました。
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こんな看板が所々に立ちました。

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 東根市猪野沢(11月1日のクラウンRS41の書庫で紹介しました)雪崩のお蔭で車が殆ど通らなくなり、山形県、宮城県に甚大な経済的損失を与えます。山形県では天童市、東根市が宮城県では作並温泉と秋保温泉が甚大な損害を被ります。


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 上の写真を参考に、左折すると猪野沢の岩崎地区に入り、岩崎地区を東進すると小山田新道方面に行きます。此処を大きく整備して国道を切り開けば、R48に何か有った時の生命線確保になります。
 
 此処の開発は数年前にボツになりましたが、今一度開発候補に挙げて欲しいですね。
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猪野沢より仙台寄りの東根市沼沢。この方面に旧R48が有ります。又沼沢はかつて営林署が有りました。

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沼沢方面もこの通りガラ~ン!こんな光景は滅多に見られません。

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 撮影は昨日2日ですが、東根市高崎の大江新田付近で通行止め。但し、この先には悪戸、休石、大瀧、赤石、赤坂がありますから、その地区に行く場合は現場のガードマンに伝えます。
 
 但し大瀧より仙台側は完全通行止めなので、ラーメン紅花付近でUターンとなります。


はじめに

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 昨日関山峠の雪崩通行止めについて書いたら、ふと間もなく発生から4年となる東日本大震災の「私の目からみた3.11」の記録を残したいと考え急遽付け足しました。

 
 殆どが写真が無い投稿となり、あくまで記憶が曖昧になる前に書き残そうと考えました。中心は当日から3月30日までの19日間の記録です。

 当時一番困った事は油脂類が手に入らなかった事です。まして公共交通機関が貧弱な山形県ですので、自家用車が使えない=移動できないですから。

 平成23年3月11日山形県は季節外れの吹雪でした。
 

高額切手

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 高額切手として発売された最初の切手が「神功皇后」が図案の切手で明治41年2月20日に発売されました。今回は10円を紹介しますが、他に緑色の5円がありました。この時代の5円、10円は相当な高額で、明治41年のひいお爺ちゃんの給与は20円程でして山形県警で20代巡査に支払っていた額です。

 郵便にも使われたとは思いますが、主に電信電話に使われました。電信電話切手は明治18年5月7日に発売され明治21年には郵便切手での納付が認められ、この制度は昭和24年(1949年)までの61年間続きました。その為明治時代以外でも昭和時代までの高額切手は電信電話料金対応と見て良いでしょう。

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 神功皇后図案。此れが選定された理由は明治天皇が生来の写真嫌いで、当初明治天皇図案が検討されましたが断られて、天皇が選んだのが「神功皇后」と云う話しも残されて居ます。
 それにより、「天皇家の肖像画に消印を押すのが失礼」説が歩き回った可能性もあります。

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上の神功皇后をデザインしたのが小判切手図案をデザインしたギョエツ。西洋人がデザインしたので、日本人の顔と少しズレが出たのはこの為です。

 尚、大正12年に関東大震災が発生した時、図案の原版が消失して、翌年大正13年に新しい原版を作った時より日本人らしい図案の切手が作られました。(昭和14年まで発行)

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今回紹介されたのが大正3年から12年までの切手で、裏にはこの様な「透かし」があり、これを大正透かしと云います。明治41年~大正3年までの初めの物は透かしが有りません。此方は菊切手高額切手とされて居ます。


地震発生

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 あの日私は何らかの理由が有って有給休暇を取得しました。その用事が「とりあえず」終わって、自宅でお茶を飲んで居た時でした。携帯電話からけたたましい音がして、見ると「10秒後に大きな地震が来る」でした。

 
 先ずは逃げるとお婆ちゃんを何とかしなければ!でしたが、もうそれは出来ませんでした。震度5弱で何とか歩ける状態でした。

 此れまでの経験は昭和53年6月12日の宮城県沖地震でしたが、それを大きく上回りました。この時我が家は崩壊すると思いましたが何とか持ち堪えました。この日から約1か月強毎日震度4以上の余震が有った事も記録しますが、宮城県沖地震の時はこれ程ねちっこい余震は無い筈です。

 此処からが私の重要な残すべき記録です。地震発生14時48分(山形県内)から3分以内に電気は全て止まりました。この日から13日の18時54分まで停電が続きますが、R48を渡ってすぐそばの仙台市ではそれこそ「地獄絵図」の様な状態になって居たとは私は知りませんでした。先ずはラジオが無かった事と、車のエンジンを掛けてラジオを聞こうとは発想も無く、「山形に直下地震でも来たか?」程度でした。

 オール電化の私たち夫婦が住む家は、悲惨な状態でした。暖は取れない、風呂は沸かせない、煮炊きが一切できないのナイナイ尽くしでした。この時思った事は

「オール電化住宅はやめろ!」
 

です。本当に悲惨ですよ。唯幸いチョロチョロでしたが水道が使えました。

 
 更に自宅が倒壊すると思ったので、私の命の次に大事な「無明和尚」の掛け軸と先祖の位牌は潰れても直ぐに取り出せるように外に近い頑丈なテーブルの下に置きました。

 事の重大さを知ったのはカミさんが帰って来てからで、携帯電話でのテレビを見てからでしたが、津波映像にたまげ、EF78等が被災した映像に言葉を失いました。この時点では福島の原発が大変な事になった事は知りません。何せ電源が無い中でのテレビなので直ぐに電池がカラになりますからね。

 それとトヨペットクラウンデラックスは潰れても仕方ないでした。位牌と掛け軸だけは何としても守り抜くつもりでした
 
 職場への出勤が困難なので、よく土曜日が出勤なので、家に留まりました。土曜日から翌日の夕方まで私は24時間以上勤務しましたが、あの時は不思議と疲れた記憶が有りません。凄く気が張って居たんですね。

 
 
 

 

取扱書にない使い方

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 この最右翼はコラムシフトチェンジではないでしょうか?
 
 当時きちんと直角にシフトチェンジしないとシフトレバーが「フリーズ!」してしまうのがこの時代のクラウンの特徴であり、トヨタ車の特性なので、
 
コラム噛みせず運転できて一人前と当時云われました。              然し今は多くのドライバーがコラム噛みを起こすみたいで(特にローからセカンド)その対策等を此処で書く事としました。
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 何の変哲もないシフトレバーですが、CCIさんのセドリックの様に定期的に給油等のメンテナンスは必要ではないですが、今の人からすればとんだ「クワセモノ」なのです。此処をご覧の年配のドライバーならもう「ピン」と来た方も多いでしょう。
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 そのクワセモノのコラムリンケージ。コラム噛みしたら、安全な場所に停車しエンジンを切って噛んだ側のレバーをゆすれば外れて「フリーズ!」は直ります。
 
 トヨタ車オーナーはこの点をきちんと押さえないと大慌てしてしまいます。でもパブリカはこういう事は無い話らしいです。
 当然ですが、取扱書にはこの対処方法は書いては居ませんよ!

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写真がずれましたが、コラム噛み時の対応ブッシュ。リンケージのジョイント(関節部分)をこの部品に交換しま す。それにより、大分噛みにくくなります。


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 此れは個体にもよりますが、コラムシャフトの部品で、私の車は丁度10万キロ走った頃ガタが来て、程度良い中古に交換しました。

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交換した翌年手に入った新品。TOYO製のデッドストック

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此れがその部品で、先ずは当面のストックです。

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 此方は部品取り車からの物、こちらも程度が良いので修理して使おうかな?どうも親父の運転が余り上手くは無いのでガタが出たかな?オリジナル品は廃棄。


2か月ぶりの走行

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 山形県内でも雪が少ない我が市ですが、道路の端にはこんなに雪が積もって居ます。
 天気が良かった昨日、幹線道路は雪が無いので走らせました。
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 除雪のホイールローダーもこの通り走って居ます。

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助手席側から。

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少し離れた田圃で。イヤハヤ凄い雪の量です。

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 居るんですよね~、雪が溶けたからと、道路に敷地の雪をばら撒くジコチューのオヤズとかオッカァとか。
 撮影地から南に200メートル行った所ではオッカァが派手に雪を道路に撒いて思い切り警笛を鳴らしました。

 下の写真もジコチューオヤズ!困った者です。

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市内を走る

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気持ちよく晴れ渡った日曜日、1時間ほど走らせてみました。
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 此処はR48から西進をすると着きます。R48経由で当家にお越しの場合この付近で待ち合わせを考えて居ます。当家から1キロ以内で、自己紹介にある関山峠の近くのとしたのはこの為です。

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R48には関係ないけど水田にて。

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いや~積もりました。

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思ったよりよく写った。

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 こんなに雪が降るので、桜の季節の写真が多い事をご理解頂けたでしょうか?初期のブログはこれでもか!と云う位桜の風景が有った筈です。

オイルショック その1

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 3.11で非常に困った事は停電もさる事ながら、油脂類が一切手に入らなかった事でした。私が生まれた年のオイルショック、平成5年の100年に1度の大冷害で発生したコメ不足を思わせる物資不足ぶりでした。

 幸いと云うか、我が家と職場はタマタマ震災の3日前以内に満タンで灯油を確保しており、停電復旧以降は寒さに凍えたり、風呂に入れないと云う事は無かったが、上司や同僚、部下には「実は震災の日辺りにでも給油(灯油)をしようとしていた。」と云う方が多く申し訳ない気持ちになってしまいました。その後石油状況の改善が見込めず就業時間外に限って職場のシャワーを開放する事となりました。無論これには私は申し込みませんでした。

  さて、私がいちばん当時困った事が自動車燃料=ガソリンの入手目途でした。此れは参加していた掲示板に相当詳細に当時の様子を書いて居ますが、今はシステム変更に伴い消えてしまいもう見る事が出来ませんので、自分で記録を保存する事としました。

 自分の事を書く前に当時実際山形県内で起きていた事を記録する必要があります。前に書いた通り停電が発生して、電車は走れません。その為電車のお客は皆バスに流れて昭和30年代の東京のラッシュアワーの様な状態でした。恐らくバス運転手さんも普段は空気を運んでいる状態なので、こんな事は初めての経験と云う方も居たでしょう。私も初めて見る状態でしたから。然し燃料の入手目途が付かないのでヒヤヒヤしながらの運行だったでしょう。

  ガソリンスタンドでも旧型の給油機の場合だと停電となると手動で給油するシステムがありますが、新型には其れが無く新型機のみの業者は全て休業に追い込まれました。でも2日で復旧したので直ぐに営業が再開されましたが、今度はガソリンが手に入らないとなりました。

 私等が住む村山地区は全て仙台経由で石油類が各ガソリンスタンドに仕入される方式なのです。(注:置賜地区は新潟ルートで、庄内地区と最上の一部は秋田ルートで石油類が運ばれます。山形県には昔から石油コンビナートが無いから、コンビナートが有る仙台、新潟、秋田から仕入れて居ます)その為人口が多い村山地区なので、仙台ルートが震災で壊滅してしまいかつてない石油危機となりました。
 石油に限らずありとあらゆる物を仙台に依存してきた地区ですから、仙台がこういう甚大な被害を受けるとこちらも共倒れしてしまいます。以前からR48の大切さをしつこく書いて居るのは此の事もあり、

  仙台やR48が被害を受けると山形県は本当に「死んでしまいます」命の市であり、道路なのです。小山田新道の仙台への整備を中断したけど、今回の雪崩やそして3.11で甚大な被害を受けたので必要性が理解できたかな?と思いますが・・・・無理かな?
 

  さて本題へ、山形県内でガソリンが通常通りに供給される様になったのは4月の上旬から中旬にかけてです。それまでは初めは10Lまでとか段々と20Lまでと制限販売がされていました。20L制限は確か3月下旬になってそこまで拡大されました。

 もうガソリンスタンド前には私も生まれて初めて見た光景ですが、車列がズラ~ッと連なり、当家の畑(クラウンGS130がある畑)前は一方通行であったが、歩道に沿って逆方向向きに長蛇の列が出来て居ました。丁度巨峰の樹の手入れで3月20日に畑に自転車で行くと呆れる車列が出来て居ました。県内何処でもこういう風景は見られました。
 給油まで1時間以上掛かる訳ですから、エンジンを切って待機する為、寒さの余り車内で「練炭」を焚く者も居ました。
 当然の事ですが、車内で練炭を焚くとは自殺の時の定番です。当人もそのつもりはなくとも、寒さの余り又代替品が無いのでやむを得ずやるのでそれによる犠牲者も数名出ました。
 本当に身近でも此れが発生し、カミさんの叔母さんも給油で並んでいたら少し前の方がやはり練炭を車内で焚いて居り、余り進まないので、後続の方が様子を見に行くと、グッタリして居り、大騒ぎになってタマタマ看護師ですから、応急処置をしたけど残念ながらとなってしましました。
 石油状況が改善してから振り返ってみると、多くが「何時ガソリンが手に入るか判らないので、僅かにメーターが下がっただけで給油した」の回答が目立ち本来の給油パターンでやればこういう大行列は出来なかったとなりました。
 此れは日本人特有の心配性からこういう行為に出る物と結論付けられますが(私もその為クラウンRS41の部品確保に走ります(笑))災害が起きる度こういう珍現象が今後も起きるでしょう。
 さて本日の末筆として、3月20日の畑前での大行列の中と震災翌日に何を血迷ったのか「仙台」ナンバーや「宮城」ナンバーの車が結構見受けられ、山形に来ればガソリンが手に入ると思ったのでしょうね、こちらは仙台以上に厳しいのですけど(笑)山形で給油してもそれ以上油を消費しますから(大笑)
 大笑いしたけど、職場でもタマタマ置賜地区から通勤する上司が居て、上司曰く「置賜は通常販売」でしたので本当に置賜に行った部下が居て最終的には給油前以上消費していたそうです。
 
 

関東大震災前の大正切手

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 前回は菊切手で偽物が出た話で終わりましたが、大正2年に偽造が困難な大蔵省造幣局に勤めていた田沢氏がデザインした、田沢切手に変更になります。紹介する切手は透かしが入った大正3年以降の切手になりますが、大正15年まで増刷されます。

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 田沢切手は2銭しか持って居ませんが、将来的に少しずつ他のシリーズも集めます。透かしがない切手は大正2年~3年まで発行されますが、こちらはかなり希少です。

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此れが以前も紹介しましたが、大正すかし

 下の切手は大正5年11月3日発売の裕仁皇太子が即位した時の切手です。
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オイルショック その2

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 さて停電は復旧したものの、今度はガソリンが手に入らない事態に陥りました。当時VNY30は1/4程度消費した状態でしたので、特に冬場は消費が激しいので不安は有ります。
 その為通勤以外では車は乗らないと決めました。停電が復旧しても肝心のガソリンが手に入らず多くのガソリンスタンドは1週間は休業していました。

 ニュース映像では毎日の様にタンクローリーが東北に向けて走って居ると報じては居ますが、全く我が山形県にはタンクローリーは来ませんでした。その為在庫が残ったスタンドは売り惜しみを始めました。それに反応した客が僅かにメーターが下がっただけで給油をするので悪循環に陥りました。

 そこで私が思いついた事は解体屋にガソリンを分けてもらう事。試に電話を掛けると解体屋は電話に出なかったけども、よくよく掲示板で話しを聞くと関係者の間で廃油を分け合って居る事が多く、表だって廃油を横流し出来ない事が判り、ある意味解体屋に繋がらなかった事が幸いだったと思います。
 
 

 3月15日前後に石油元売り業界で供給行程を発表しましたが、此れによると、東北地方は被災地を優先するが、被災していない山形、秋田は

 
 供給は後回しを意味する「東北地方(被災地)」と出て、次が関東地方と出たのです。
 
 
「山形県と秋田県は見捨てられました!」
 
 
 その為東京五輪開催の時被害日本大震災から立ち直った事をPRに使ったので、まさに盗人猛々しいと思い、大した被災が無かった東京都が震災から立ち直ったとしたので東京五輪開催に反対しました。
 他にも原発事故で国際五輪協会が不安を指摘したら「東京都は原発事故とは関係ない」とした事事態も怒りに触れて反対をする様になりました。

 私の知りうる限り村山地方にガソリンが供給されたのが3月30日前後です。3月中で供給できたスタンドは市内では1軒だけで、他のGSは限定量しか入手できず、完全供給は4月に入らないと実現されませんでした。供給を確認したスタンドに行くその1時間前にVNY30に尺取虫運転で漸く給油したばかりで、(1時間待ちでした)試にとクラウンRS41を満タンにしてみようと思いつきました。
 何分クラウンRS41もお袋、カミさん、妹の送迎で満タンで冬眠させたけど、冬眠早々2/3程消費しました。

 然しそのスタンドには給油する前、直接スタンドには入れず、ガラの悪いアンちゃんが3人ウロウロしている所に案内されて、アンちゃんが「良し」となると初めて給油できました。
 どう見てもスタンドマンの恰好ではなく如何にもチンピラが着る服装でした。直ぐにクラウンRS41の給油が出来た事は喜ばしいけども、アンちゃんが「駄目だ」と云うと追い返される事態になり、私の後の車が追い返されて居ました。

 この時の事も掲示板にも書きましたら、トピ主さんが面白い事書いて居ました。「奥様のティーダを最優先で給油するべきで、クラウンRS41は後回しにするべきだ。」とつまり周りが趣味用の車にフダフダ入れて良い気がしないし、、ヤッカミを持つ。その点ティーダ=うさちゃん号ならば誰も悪い気は起こさないだろうとの事でした。又うさちゃん号は事実上我が家一番の稼ぎ頭ですし、何かあればうさちゃん号が頑張らねばなりません。因みに当時うさちゃん号は給油ランプが光って久しく何時ガス欠で止まるか判らない状態でした。

 流石のカミさんは震災当時でうさちゃん号には半分しか残量が無く、それも底を尽きかけ、VNY30に乗せてもらうがこれもやがてわずかな残量になると、私が所有する50年近い年月を経た自転車に乗るか、少し古いクラウンRS41に乗るかの究極の選択となり、仕方なくオールドカーに我慢しながら乗って居ました。自転車は重いし、クラウンは柔らかい乗り心地に古臭で辛いと云うけど何とかしのいでいました。その姿が可笑しかったです。

世界でいちばん熱い夏

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 題名はプリンセスプリンセスがデビューした曲ですが、今畑に眠るクラウンGS130に乗って新婚旅行で北海道に行った時、中学時代の修学旅行のコースをGS130で走りました.
  当時流行った曲でこの曲のテープをバスの中で流した筈。歌詞はもう覚えては居ませんでしたし、曲名も最近まで頭の中から消えて居り、ふと数日前何かの番組で流れて記憶が蘇り、今回この記事を纏めてUPしたところです。
 まず気になって行った所が虻田町の火山科学館です。そこには被災した車両が展示されて居ます。
 修学旅行は5月25日から4泊5日でしたが、火山科学館に展示された車両とこの曲が何故かダブります。
 確かに有珠山は昭和52年8月6日に噴火しました。それがダブル理由かな?

 それと有珠山噴火当時親父が修学旅行の下見で北海道に行き、暫く足止めされた様子で、私も記憶に残って居り、親父が来ないので「パパ!パパ!」と何日も呼んで居た記憶が鮮明です。当時お袋は妹を出産して忙しい時期でした。それとタマタマでしたが、同じ市内に住む親父より10歳年上の教師もやはり修学旅行の下見でこの地に居り、この先生も足止めに遭ったそうです。
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 当時はスタッドレスでは有りませんでしたが、VNY30に使って居るMS105用のホイールキャップにホワイトリボンでした。グリルは既にSTD用でした。

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 で、此れが有珠山(うすざん)噴火で被災した虻田町長の公用車。あれ?ボンネットに石が上がっていたっけ?
 でも当時不思議だったのが8月なのにスノータイヤである事。当時はタイヤが高くて、古くなった冬タイヤを夏場にも履き潰す事はザラに有りましたし、今もスタッドレスでそういう光景が見られます。
 幾ら高いタイヤでも公用車が冬タイヤとは…財政が苦しかったのか?と思います。

 因みに我が家のクラウンRS41はきちんとタイヤは夏冬交換しました。(と云うよりもカローラKE20からマーチ、ティーダに至るまで履き潰しした車は無い)

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 石は兎も角、ホイールキャップがおかしい!新婚旅行で行った当時も「ケンメリのGL」用でしたが、何故かその前のハコスカGL用に代わって居る。

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 此れが動かぬ証拠。やはり記憶は誤って居なかった。私がケンメリとハコスカのGLやDXは間違える筈がない。修学旅行で行った当時のパンフレットが残って居ました。無論修学旅行のしおりも残して居たので新婚旅行で大まかなルートを走れました。

 唯ワイパーは弄られて変な位置に当時は成って居ましたがそこは直されて居ます。ワイパーは兎も角ホイールキャップを当時とは違う様にするとなると、この博物館の管理体制に疑問を感じます。此れは小さい事ですが、当時とは違う様にする事は有ってはなりません。

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此方は町民の車ですがブルーバードU610.タイヤはラジアルタイヤでしたので、5~6年で交換なので相当な距離を走ったでしょうね。

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此方も町民の車ですが、タイヤはリヤがラジアルですので、多分これも2回目のタイヤでしょう。唯フロントがバイアスのスノータイヤ。ラジアルとバイアスの組み合わせは非常に危険です。絶対に真似しない様に。

 因みに、駆動輪に冬タイヤ、非駆動輪に夏タイヤは当時良く雪の降り始めと雪解け近い頃に見られました。バイアス同士はOKですが、このチェリーの様な組み合わせは駄目!今の場合スタッドレスと夏タイヤの組み合わせもラジアル同士でも危険ですから止めましょう。

  *我が母校の修学旅行ですが、昭和62年より5泊6日から4泊5日に短縮されました。
 実は此れには理由が有って私の親父が大きく関わって居ます。彼は貧しい農家の4男(5人兄弟の末っ子)として生まれた事もあり、又自然環境が厳しい西川町大井沢の生まれですから、子供達には自然に親しませ強く育てたいと云う強い考えが有ります。
 親父の方針は2年生が行うクラス合宿を4泊5日から5泊6日に延長し金が掛かる北海道旅行をその逆としたいと考えたそうです。無論親父の方針に反対的な先生も多く、親父の最期となった1つ上の先輩の修学旅行の文集には有る先生が「1泊減った分楽しさ半減」とあり、親父らしく札幌市街地の観光をカットしたそうです。そこが書かれていたので、親父らしいと私は思いました。

 親父の生家は元々はお金持ちでしたが、昭和23年に隣家を撒き込む火災を起こして隣家の保証などもして貧乏になり、どうにか息が付けた昭和30年代半ばは伯父(親父の直ぐ上)が大学院に進学を考え学費が掛かり親父が集団就職となりました。
 生前親父からは実父の話は一度も聞いた事が無く、妻であるお袋にも「僕が幼い頃亡くなった」とだけだったそうですが、実は19歳8か月の時亡くなりました。此れはお袋が私から知らされるまで知らなかったそうです。
 推測するに親父とお爺ちゃんは折り合いが悪かったと思います。お爺ちゃんの性格は親父とは正反対でしたし。大学院進学で割を食った伯父と親父はとても仲がいいです。親父が亡くなった時伯父が収骨時お経を唱えてくれましたし。(当家の菩提寺の坊さんは何故か火葬には何処の檀家にも立ち会いません)

 親父は43歳で亡くなるが、40歳以降はホント、校長が親父?と思う事がザラにありました。男子は丸刈り、女子はオカッパは親父の強い考えでしたし。彼は「お洒落にウツツを抜かして学業に身が入らないでは駄目だ、第一油(ヘアトニック類)代、床屋代は誰が出す!金が掛からないのは坊主にオカッパ」と考え「其れが中学生らしい」と云いました。
 先生方の中にも丸刈りオカッパ強制に疑問を抱く方もいらっしゃいまして、廃止を検討した時親父がそう発言したそうです。
 


信号機の有り難さ

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 あの3.11で本当に有難味を実感したのは信号機です。
 唯でなくとも交通マナーの良くない山形県ですから、震災直後はまさに無法地帯。我先にと走るから危険極まりなく、震災当日職場に出向こうにも吹雪と危険な道路では恐ろしくて出勤が出来ませんでした。

 案の定停電が復旧するまでの間、1時間おきにパトカーと救急車のサイレンが鳴りやみませんでした。「あゝ、また事故が起きたな」と当時は思いました。但し震災翌日は国道の一部に発電機を使って信号を作動させ、その時は本当に安心してホッとしました。

 でも県道とか市道はマダマダ復旧せず危険な状態は続きます。

 停電復旧後我が市は当時計画停電の対象でしたが、幸いそれは免れました。もし計画停電となれば危険が倍増でしょう。                 
                                                    
 但し東京都の23区以外とか他県でも都市部以外となると関東地方では暫く計画停電があり、それによる犠牲者がかなり出ていた事も記録しなければなりません。計画停電によって、本来失わずに済んだ在宅酸素養生者、更に信号が停まったが為に交通事故で犠牲になったり、或いは加害者となり人生を狂わせた者が多数存在します。
 

 だから私は書きます。東京都が東日本大震災から復興を遂げたと主張すると「盗人猛々しい」と書くのはその事なのです。震災で何でも優先で復旧すれば復興して当たり前、犠牲者を少ししか出さない東京都がオリンピック誘致で大震災からの復興を使うとは噴飯ものですな。
 これが東京五輪開催の反対理由です。

大正~昭和初期の切手

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 大正時代の後半から昭和12年までの切手を紹介します。
 大正12年9月1日に関東大震災が発生し、この時大蔵省造幣局が火災で全焼し、切手の原版も消失しました。田沢切手等はそもそも造幣局の職員のデザインなので程なくして復帰しますが、神功皇后はギョエツの作品なので、復刻が出来ず、より日本人らしい神功皇后像に変更され大正13年に復活します。

  この頃の切手は私はイマイチバリエーションを呑みこめず、今後勉強して訂正が出ると思いますが、その時再UP致します。


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震災後応急的に作られた切手。民間工場で製作し、数か月販売して次に紹介する切手に変更されました。
 竜文切手同様鋏でシートを切って販売します。
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風景シリーズ。右の赤は昭和12年に発売されました。左の青は大正15年発売です。

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此れも風景シリーズ。大正15年発売。

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富士鹿(ふじしか)切手。発売は大正11年ですが、多分昭和に入ってからの物の可能性が有ります。


震災で知った食材

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 震災の翌日より私は24時間勤務をしましたが、勤務が終わってコンビニやスーパーに行くが殆どが休業していました。原因は停電ですが近所のスーパーが発電機を駆使してどうにか3月12日には営業を再開できました。

 食材を買い求める客が殺到しましたが、そもそもが鮮魚店からスーパーになったので、手に入りにくい鮮魚はあっと云う間に売れ切れました。
 

 そんな中でしたが、此れまで知らなかった食材を発見。「冷凍蕎麦」です。
 実は立ち食い蕎麦の様な手軽な蕎麦を以前から探して居ましたが、此処は蕎麦王国とあって、手軽な蕎麦とは云え4分茹での蕎麦とか乾麺の蕎麦が大半で熱湯30秒で出来る蕎麦が殆どなく時折立ち食い蕎麦みたいな物を食べたいと思っても食材探しだけで相当なエネルギーを使うので(更に立ち食い蕎麦を食べに行くにも数キロないし10数キロは走らないと店が無い)遠のいてしまいますが、この蕎麦の存在を震災で知りました。

 このスーパーでは5個入りで冷凍蕎麦が売られ以後手軽に食べたい時に蕎麦を食べられる様になりました。但しこのスーパーも震災から半年すると、仕入れを止めてしまい、困った!そこで取り扱って居る店2軒探しそこから買ってストックして居ります。

 スーパーによると、冷凍物はうどんは売れても蕎麦は売れないそうです。事実熱湯30秒も殆どがうどんです。確かに山形は蕎麦が旨いけど、こういう手軽な物は需要が無い、云い替えれば銭湯は無い山形だが温泉はふんだんにあります。手軽な物が無いのも山形の特徴です。
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