あの日私は何らかの理由が有って有給休暇を取得しました。その用事が「とりあえず」終わって、自宅でお茶を飲んで居た時でした。携帯電話からけたたましい音がして、見ると「10秒後に大きな地震が来る」でした。
先ずは逃げるとお婆ちゃんを何とかしなければ!でしたが、もうそれは出来ませんでした。震度5弱で何とか歩ける状態でした。
此れまでの経験は昭和53年6月12日の宮城県沖地震でしたが、それを大きく上回りました。この時我が家は崩壊すると思いましたが何とか持ち堪えました。この日から約1か月強毎日震度4以上の余震が有った事も記録しますが、宮城県沖地震の時はこれ程ねちっこい余震は無い筈です。
此処からが私の重要な残すべき記録です。地震発生14時48分(山形県内)から3分以内に電気は全て止まりました。この日から13日の18時54分まで停電が続きますが、R48を渡ってすぐそばの仙台市ではそれこそ「地獄絵図」の様な状態になって居たとは私は知りませんでした。先ずはラジオが無かった事と、車のエンジンを掛けてラジオを聞こうとは発想も無く、「山形に直下地震でも来たか?」程度でした。
オール電化の私たち夫婦が住む家は、悲惨な状態でした。暖は取れない、風呂は沸かせない、煮炊きが一切できないのナイナイ尽くしでした。この時思った事は
「オール電化住宅はやめろ!」
です。本当に悲惨ですよ。唯幸いチョロチョロでしたが水道が使えました。
更に自宅が倒壊すると思ったので、私の命の次に大事な「無明和尚」の掛け軸と先祖の位牌は潰れても直ぐに取り出せるように外に近い頑丈なテーブルの下に置きました。
事の重大さを知ったのはカミさんが帰って来てからで、携帯電話でのテレビを見てからでしたが、津波映像にたまげ、EF78等が被災した映像に言葉を失いました。この時点では福島の原発が大変な事になった事は知りません。何せ電源が無い中でのテレビなので直ぐに電池がカラになりますからね。
それとトヨペットクラウンデラックスは潰れても仕方ないでした。位牌と掛け軸だけは何としても守り抜くつもりでした
職場への出勤が困難なので、よく土曜日が出勤なので、家に留まりました。土曜日から翌日の夕方まで私は24時間以上勤務しましたが、あの時は不思議と疲れた記憶が有りません。凄く気が張って居たんですね。